確かに、戦時中の「徴用」は強制だ。 応じなければ、100円以下の罰金や1年以内の懲役に罰せられた。しかし、これは日本人も同様だ。というより、朝鮮人も当時は「日本人」だったのだ。そこには民族差別的な制度は存在しない。

 むしろ、1939年(昭和14年)7月より日本内地で実施された国民徴用令が、朝鮮半島でも実施されたのは 1944年(昭和19年)9月からで、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施されたが、日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡船の運航が困難になるまでの7ヵ月間だけであった。

むしろ、「徴用」は朝鮮人の間で人気があり、自らも日本企業での徴用に志願した経験を持つ崔基鎬・加耶大学校教授は、三菱鉱業手稲鉱業所が忠清南道で鉱員を募集した際、1000名の炭鉱員募集に7000人が殺到し倍率は7倍に上ったと述べている。

戦時徴用の勤労動員は合法的に行われており、そこで働く人々には宿舎も用意され正当な報酬が支払われていたので、当時の朝鮮人にとって、徴用は人気の『出稼ぎ労働』だったのである。 「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ(中略)就業後も休祭日は自由に札幌に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」(崔基鎬『歴史再検証 日韓併合―韓民族を救った「日帝36年」の真実』)

戦後、賃金の一部が未払いであったことが問題とされたが、1965年に締結された『財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定』によって未払い賃金を含めた経済支援『合計5億米ドル(無償3億米ドル、有償2億米ドル)及び民間融資3億米ドルの経済協力支援』が韓国に行われ、完全かつ最終的に解決されたこととするとした。

当時の韓国の国家予算は3.5億米ドル程度、日本の外貨準備額は18億米ドルであったことから、その額の膨大さが推し量れる。韓国は、この日本からの経済協力金を原資として、国内のダムや高速道路を整備し、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げた。但し、韓国政府はこの補償金を個々人にはほとんど支給せず、自国の経済基盤整備の為に使用した。これが現在の徴用工訴訟の元凶である。