整理:崔榮黙(メディアトラジ管理者)

日本に伝わる韓国関連報道もそうであるが、中国関連記事に対してはどうだろうと思って会社の中国出身の人に聞いてみるとやはり違った意見を聞くことになるた。確かにその人の意見が全部正しいとは言えないが、現地の事情を知らず記事のみを頼って理解するのは限界があると思うのだが現実はそんなこと関係なく沢山の情報で溢れる世の中である。
メッセンジャーメディアトラジグループでは日本・韓国また今回新たに加わった香港在住斎藤拓司と定例のリモートチャットを行い、香港現地の事情事情に詳しい斎藤拓司さんから貴重な意見を聞くことが出来、その内容を斎藤さんがまとめて下さったので感謝するところである。

今回、7名によりリモートチャットが行われた。顔は事前同意を得ておらずモザイク処理

斎藤拓司さんより

斎藤拓司さんのフェイスブックプロフィールイメージ。香港在住、日本人ビジネスマン

香港での反中感情

昨年の香港国家保安法、一昨年の市民による抗議活動など、日本でも香港情勢について多くの報道がなされ、国民の関心を集めた。香港がなぜこうなったか、過去の経緯を踏まえて少々解説したい。急に大騒ぎになったわけではなく、ああなるしかなかった返還後の香港社会の変化について理解することは、朝鮮半島を含めた東アジア全体の枠組みの変化を考察する一助になる。
香港の中国返還では「50年不変、一国二制度、港人治港」が約束され、自分が香港での生活を始めた2003年当時は、香港の街の雰囲気は以前のまま。大陸からの中国人入境は制限され、街で北京語を耳にすることはほとんどなかった。当時の香港政府も香港市民にそれなりに気を使っており、北京中央からの指令をそのまま受けるのではなく、微妙に交渉していた節もうかがわれた。
変化を肌身に感じるようになったのは2005年くらいからだ。SARSによる経済的打撃から立ち直るため、中国マネーをあてにする政策を導入したことにより多くの中国人団体観光客が香港を訪れ、香港に金を落とすようになった。現金な香港人は「内地同胞」と中国人観光客を歓迎し、落とす金に群がった。
2008年のリーマンショック後、中国が景気テコ入れで大量の資金を投入した時も、そのおこぼれは香港にも及んだ。香港の経済的な位置が相対的に低下し、中国企業と中国人が香港の経済界で存在感を強めた。かつての貧しく汚い中国は完全に過去のものとなり、香港ドルは人民元の8割程度にまでその価値を失った。豊かさを誇った香港人はむしろ大陸側の中国人より貧しい立場に転落してしまったのだ。
(次回に続く)
「愛国者による香港統治」
中国(北京中央)国務院で香港・マカオを管轄する香港マカオ弁公室の夏宝龍主任の「愛国者による香港統治」発言が、香港で大きく報じられている。香港の現行選挙制度を見直し、立候補者を愛国者か否かで選別し、愛国者でなければ議会活動から締め出すというのだから「一国二制度」も「港人治港(香港人が香港を統治する)」もあったものではない。
実は既に香港の行政機関で働く公務員にも「愛国」と「国家への忠誠」を誓わせ、主要な幹部を集めて「宣誓式」すら行っているので、民主派を徹底して排除しようとしている中国共産党は香港への締め付けを更に強めているということに他ならない。
問題はこの「愛国」の中身だ。実際には「愛(中国共産)党」でもあるのだが、香港市民には中国にルーツを持つ人々が大半なので、中国人意識、つまりナショナリズムと民族意識に訴えることは少なからぬ効果がある。それでなくても利にさとい香港人なので、中国マネーを意識して中国とは折り合いをつけて「愛国者」のふりをして振舞った方が得だと打算を働かせる手合いもかなりいる。いずれにせよ「愛国」と言われると、表立って反対しにくい部分があるということだ。
自分が生まれ育った場所、国やふるさとを思う気持ちは誰にでもある。人間として当たり前の純粋な感情だ。しかし、ナショナリズムは行き過ぎれば独善的かつ排他的になり、盲目的な民族主義が数々の悲劇につながったのは歴史が示している。
そもそも香港は、中国人(華人)が人口の大半を占めているとは言え、英国時代に移り住んだ白人系、インド・パキスタンなどの南アジア系、傭兵として香港で軍隊や警察で働いたネパール系、そして少数ではあるが日本人や韓国人など、多様な人々によって成り立っている社会だ。ルールさえ守れば、誰でも等しく活動する権利が保障され、外国人でも7年間、合法的に滞在していれば永久居民として永住権、選挙権も与えられる。
そうした香港で「愛国」が独り歩きすれば、排外主義的ムードが高まり、国際都市、究極の自由都市としての香港の魅力はすっかり失われる。
トランプ現象や欧州での移民排斥、「反日種族主義」と揶揄される韓国の異常な反日民族主義などなど、行き過ぎたグローバリゼーションの反動から、世界は再びナショナリズムに覆われている。民族としての感情によって理性的な判断ができなくなる恐ろしさと愚かさを人類は改めて考える時期に来ている。