ライター:崔榮黙(メディアトラジ管理者)

日本人として、戦前韓国にて生まれ韓国にて育ち、そして先生になり子供たちの教育に関わっていたが戦後日本に引き揚げられ、100歳を超え今も生きておられる方の戦前体験談と言う話に物凄い好奇心と関心を持って読んで見ようと思った。
内容は公開できないけど、印象的だったところを述べたいところである。こういう話を聞けるチャンスがあったことには大変幸運であると思っている。
1.当時の時代、世間の雰囲気である軍国主義に基づいた教育ささせたのが、その時は普通であると思いそれが本人に任された使命だったと思っていたが、戦後それが如何に植民地の子ど達に負担をかけていたのか、申し訳ないと思ったとおしゃっていたけど、その時代に一生懸命頑張って生き抜いたならそれでいいのではないかと私は思うのだが。
その教育の中で杉山さんは創氏改名について述べている。
この部分は、韓国では強制的に行った政策だったと教えているが、日本の資料によると、朝鮮人出身で日本軍中将まで昇りあがった洪思翊将軍の場合は朝鮮名そのままだった。そして、他の資料が出回っているのを見ると、寧ろ朝鮮人が創始改名を志願したとの内容であった。混乱していたが、今回の証言集を見るとやはり強制的に創始改名を進めていたと分かった。(真相を知る上に於いて)
創始改名は無理に進めたうえで、どうしても従わない人に対してはそれを認めると言ったことであった。だから、色んな資料を見ると当時の名前が日本式があれば韓国名そのままの名前が混じていたのが理解できた。
半端な期間で臣民化教育が終わり、元の韓国人へ戻らざるを得なかった人たちや子供たちがアイデンティティーに混乱が生じたのは多少理解できる。
私も、自由民でありながらも来日した当初、自分の存在は何なんだろうと疑問に思ったことがあった。
2.敗戦後、引揚の時に教え子の手伝いが凄く助かったということである。これは杉山先生が如何に親切で子供たちに接したかを物語っていると思う。
引き上げについては、満州での引き上げについて話を聞いたことがあるし、朝鮮北部から引き揚げになったとの話を聞いたことがる。そんな中でやはり半島の南部で引き揚げた人たちのケースが苦労が少なかったようだ。杉山先生が親切に接してくれただけに、教え子は先生との別れを悔しんだし、先生が無事に引き上げられるよう面倒を見てくれたことであろう。
こういうケースは、山本七平先生の著書にも出てくる話で、敗戦後、フィリピンにての捕虜収容所では韓国や台湾出身(軍人や軍属)が先に帰国することになったという。その時韓国人や台湾人は持っていた食べ物やたばこを親切にしてくれた日本軍将校に全部上げたという。人は力を持っている時に部下に対してなかなか優しく接することが難しいと言われているが、体質的に人に対して優しい人は後で何があったときに助けてもらうことになると予め認識する。
3.半島から離れる時に教え子から助けてもらい、その教え子から手紙を受け取った杉山先生はその手紙の内容を読んで胸が詰まったに違いない。私が読んでも本当に素晴らしい文書であり感動する内容であった。それくらい感覚の持ち主だから後で官僚になり領事として日本の地に踏み、のちに当時の先生に会うことが出来たのではないか。
あえてその内容を引用すると、
”朝鮮が独立(解放)したのは朝鮮の国民として喜びます。苦楽一体とは今になって初めて悟ったのでございます。苦とは、先生と分かれることです”
本当に素晴らしい文書で感動し涙が出るくらい。そんな可愛い教え子を残し日本へ足を運ばなければいけなかった杉山先生の足も大変重かったであろう。
もう100歳を越え今なおお元気な姿であった(写真で見ると)