ライター:崔榮黙(メディアトラジ管理者)

写真はウェブから借用

八甲田山雪中行軍遭難事件の映画は4-5年前か、偶然ユーチューブで観たことがあった(今は削除されている)。その時は大勢の若者の命を落とした悲しい出来ことであったと思っただけだった。それが、最近山本七平先生の”何故日本は敗れるか”を読んで、遭難事件から何も学べず太平洋戦争に突入しまた同じことを繰り返しながら沢山の国民の命を奪い結局敗戦に至った現認の一つであったと感じた。
著書の中で、山本先生は西南戦争から何も教訓を得ることが無かったと当時の資料を引用しながら嘆いたけど、さすがに私のレベルではその史料を読むことは出来ず、先生の解説で理解するほどであった。

まず、簡単に八甲田山雪中行軍遭難事件について簡単にまとめると。
1894年、日清戦争後帝国日本はロシアの南下政策を警戒していたという。そこで、青森沿岸部がもしロシアに占領されても内陸を利用して物資を運べるかを調査することになった。
その調査に青森駐屯の第5連隊と弘前31連隊が行うことになったけど、各連隊は事前協議がなく独自に行うことで結果的に重複していた。

第五連隊は、総員210名で前日行った予備演習の時は晴天に恵まれたこともあり当日の行軍を軽く見ていたという。そのせいで事前準備もしっかりでききず、1泊2日の予定で地元の道案内人を雇うのも拒んでいたという。
不運は色んな出来ことが重なり起きることで、事前準備不足故当日の悪天候が彼らの不幸な運命を待ち構えていたのであった。行軍の時想像を絶する風吹に第5連隊は道に迷い兵隊たちは次々と命を落として行った。
結果的に210名の内9名が生き残る山岳遭難史上最悪の事件になったという。

それと対して、弘前31連隊は少数精鋭の37名と東奥日報の記者一名の計38名で構成されており、隊長である福島泰蔵大尉は群馬県出身で冬の山岳行軍がどれ程危険で大変なことだかをよく熟知していて、食料や防寒対策など事前準備を徹底していたという。行軍の時も軍人のプライドを優先することなく民間人である地元の道案内人を雇い11拍12日予定の行軍を無事成功させたという。

映画では、弘前第31連隊の道案内人を見送る時に”気を付け!案内人殿に対し、かしら~右ッ!”という場面があり、民間人を大事にしたかなと思ったけど、ウィキーの資料に寄れはそれはそうでもなかったとような気がする。また、同資料には福島泰蔵大尉の行動について疑問を抱く内容が記されている。

弘前第31連隊は確かに道案内人を雇い迷うことなく任務を遂行することが出来たけど、実際には道案内人を酷い扱いをしたと資料から分かる。
また、第5連隊が道に迷い沢山の兵隊たちが命を落として行く中、或る兵隊は田茂木野で救助隊が来たと思っていたという。しかし、その姿はのちに消えていたので幻想を見たと思ったけど、後の検証でそれは幻想ではなく実際の第5連隊だったのが分かった。それにしてもなぜ、福嶋泰蔵大尉は第31連隊が道に迷っていたのを知りながら何故そのまま通り過ぎたのだろうか。もしかして競争心理でそうしたかもしれないがそれに沿てもその行為には腑に落ちない。

八甲田山雪中行軍遭難事件は以上の内容であるが、山本七平先生は日本軍は歴史から学べず民間人の専門家を無視し結果敗戦につながった一因になると嘆いていた。

著書によると、フィリピンには軍部から徴収された専門家が軍属としてフィリピンに行ったという。専門家がそこに行ってみると若い将校が大変威張っていて専門家である自分たちの意見を聞こうとしなかったという。赴任地についたもののまともに仕事が出来ず、やれる仕事もなく自然にそういう人たちが集まる部屋が出来たという。
そこに佐々木と言う人は東大経済出身の英才で、台湾銀行をへて、内閣企画院に入り後に司政管なって比島に着いたという。比島についてから軍人と意見が言わず思い通り行かなかったんだろう、病気を患い入院したけど、その後マニラに空襲がり、佐々木さんは”俺は死ぬぞ”と言い道を歩き回ったたが、死ぬことが出来ず病院船に乗ってそのまま本島へ帰ってしまったという。軍機がまともに保っていたならばそんな行為は出来ず出来たとしても後に厳しく罰せられるだろう。

次に、虜人日記を書いた小松真一さんについて記している。
小松さんが比島にてレイテ島に向かう時に飛行機がなく機帆船で行くことになって、そこには若い少尉が付いていたという。この少尉は自分のプライドだけを優先んし相手を配慮する気は全くなかったという。当時は軍国主義時代だから当然とも言えるだろうけど、船に乗ったら船長が一番船や航路について詳しいから従うしかないと思うが、手続きの際はかんかん怒っていたという。そこで小松さんは気分を害してあんな生意気は少尉と一緒にしたくなかったので途中でその船から降りてしまったという。その夜船は空襲に遭い全員行方不明になってしまったという。その生意気な少尉のお陰で船から降りて命を助かったので後に小松さんはその若い少尉の為に追悼の意を述べたという。
少尉殿、あなたのお陰て命を助けたのでご冥福をお祈る。と。

敗戦まで、軍国主義の時にはこんなことが続き敗戦までに至ったわけであるが、どの資料を読んで見ても、いくら当時の価値観であるにしても国民の命をあまりにも粗末に扱っていたことに怒りを覚えることになる。

山本七平著”日本は何故敗れるか”の中から