◆対馬はダメ、独島と波浪島は可能--崔南善の領土要求アドバイス(エピソード1)

まず、日韓国交正常化交渉の第 5 次の韓国側代表を務めた兪鎮午(ユ・ジノ、유진오 ) の「韓日会談が開かれるまで」(思想界)に記述された、この時の回想です。
このころ、法務部法制局長の洪璡基(ホン・ジンギ、홍진기 )が講和条約草案の掲載した朝日新聞を入手して、大慌てで兪鎮午のもとにやってきたというわけです。「日本の新聞に条約草案が掲載されているが、韓国政府にはアメリカ案が示されていないのか?」という驚きと権幕です。それで2人は、この朝日新聞を見ながら、その内容の検討を開始しました。後に、韓国政府にもアメリカの草案が届いていたことが判明しました。官僚のミスということでした。どこかに忘れられて、放置されていたようです。まあ、朝鮮戦争のさなかですから、無理もないことかもしれません。

洪璡基と兪鎮午は、朝日新聞の紙面の条約草案を検討した結果、
①韓国内に残留している日本および日本人(民間)の帰属財産に関する取り決めがないこと
②領土に関する条項に、韓国に帰属させる領土として竹島(独島)の記載がないこと
--の2点を問題点として確認し、危機感を募らせたようです。
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①について、少し補足説明します。
敗戦により、朝鮮に残した旧日本政府(朝鮮総督府)および下部機関、各種の社会団体、法人、民間人が所有あるいは支配していたあらゆる種類の財産は膨大でした。一説には、光復直後の南朝鮮(後の韓国)の総資産の 70〜80%を占めていたとも言われます。
近い将来、日本との戦後清算を行うに当たって、日本からの賠償や補償、または韓国の帰属資産の返還と、この日本資産の差額が韓国が日本から受け取れるカネやその他ということになりますが、これをやると、逆に韓国が日本に対して、膨大な額の差額を支払わねばならないことが明らかでした。このため、韓国にとっては、日本ないし日本人が朝鮮に残した資産の請求権を認めないという講和条約の条項がぜひとも必要だったわけです。
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②の領土に関する条項については、李承晩が建国時から対馬の領有を主張していたので、これを含めて、アメリカに要望を行うこととしました。
しかし、本当に領土の要求ができるものか、洪璡基と兪鎮午の2人には自信がありません。そこで、韓国の最高の知的権威とされる崔南善の自宅を訪問して、対馬の返還を要求する根拠があるかないかなどについて、相談することにしたそうです。
2人は崔南善に、「歴史的に見て、わが国の領土として主張できる島嶼は、どこか」と質問をしました。

崔南善はその質問に対して、独島の来歴についてとうとうと説明し、「(領有権を主張可能と)確信できる程度の説明」をしてくれたそうです。
ところが対馬については、崔南善は、歴史的根拠はないときっぱりと否定しました。
しかし、李承晩は公開の場で、対馬返還を宣言し、さらに建国翌年の1949年1月の年頭の記者会見でも、対馬の返還を再び表明したことから、これが韓国国内に広まっていました。2人は崔南善の回答に頭を抱えました。
このとき、崔南善は、「木浦、中国の上海、日本の長崎を結ぶ三角形の中間点に波浪島(パランド)という島があり、、「もし波浪島を朝鮮領として対日平和条約に明記できれば、朝鮮領は、済州島以西に領域を拡大できる」と助言をしたそうです。
この新たな情報に、2人は少し安堵しました。
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ここで「波浪島」についての補足説明。
波浪島は、済州島の漁民などに伝わる伝説の島のようです。時として、海中から姿を現すそうで、波浪島を見た漁民は、豊漁を約束する瑞兆としてたいへん喜んだそうです。崔南善の語った波浪島とは、こういう伝承に基づくものでした。その後、波浪島の領有権を主張するため、同島発見の調査が繰り返されましたが見つかりません。見つからないまま、この数か月後の対米交渉を迎えたわけです。
波浪島があるとされる海域に、韓国が離於島(イオド)と呼ぶ暗礁があります。韓国が鉄塔を建てて、現在、中国と対立している暗礁ですが、この離於島が波浪島ではないかという主張がありますが、韓国政府は、この推定・仮説を認めていません。つまり、現在に至っても波浪島は発見されていません。
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後に、対米交渉を開始した韓国政府は、対馬、竹島(独島)、波浪島を韓国領とする条項を盛り込むよう要求することを決定しました。崔南善の指摘にも拘わらず、対馬の返還は取り下げなかったわけです。