◆韓国政府は、なぜマッカーサーラインの継続を望んだか?

次に、韓国政府が④(講和条約後のマッカーサーラインの維持)を重視した理由を述べます。
当時の韓国の状況をより広い視点で眺めてみましょう。当時の韓国はかなり緊迫した朝鮮戦争のさなかでした。中国の参戦により、北朝鮮領域に攻め込んだ韓国軍を含む国連軍は再び押し戻され、首都ソウルを再占領され、北緯37度付近(大邱のあたり)まで後退しました。ここから再反攻をして、ソウルを奪還し北緯38度付近まで奪還しましたが、そこで戦線は膠着していました。この戦線膠着を嫌ったマッカーサーは核兵器の使用を提案。これが米大統領に拒否され、マッカーサーが司令官を解任・更迭されたのは1951年4月11日でした。

この当時の韓国の緊迫した課題の一つは、食糧です。
当時の韓国は食糧を自給できず、大量の食糧援助や輸入に頼っていました。さらに、朝鮮戦争による国土の荒廃と混乱もあり、平時の農業生産の水準を維持できなかったため、食糧難は深刻化していました。そうした中、比較的堅調なのは漁業でした。北朝鮮の海軍が極めて非力で、海上には戦火が及ばなかったこともあります。
このため、韓国政府としては、食糧の自給面で漁業に対する期待は大きかったわけです。

こうした中、不安は日本の漁船でした。日本の漁船は韓国に比べ大型で、ほとんどが動力船でした。日韓の漁船が同じ水域で漁をすると太刀打ちできないわけです。韓国は、その後、中間賠償で日本から、漁船を含む船舶をかなりの数受け取る。韓国漁業にとっては過渡期ではありました。
とりわけ韓国政府が不安視したのは、済州島西方沖の漁場です。ここは戦前から、日本のトロール漁業の漁場で、多数の日本漁船が操業していた豊かな漁場です。

戦後、占領下にある日本の漁船は、この水域への出漁を占領軍命令で禁止されており、韓国漁船の水域の占有をほぼ実現していました。韓国にとってはとてもありがたい状況だったわけです。この日本漁船の出漁を禁じたものが、SCAPIN-1033という占領軍の命令で、通称・マッカーサーラインと呼ばれていたものです。

しかし、平和条約が発効すると、占領も終わるので、SCAPIN-1033(マッカーサーライン)は失効し、この豊かな漁場に、再び多数の日本漁船が出漁することが予想されました。
韓国政府は、引き続き、この日本漁船を阻止したかったわけです。これを何としても対日講和条約に盛り込むようにしなければならない--そのように考えたわけです。

これは、第4話で詳しく述べるつもりですが、韓国の要求は拒否されました。そのため、韓国は1952年1月に「主権宣言」を行い、SCAPIN-1033(マッカーサーライン)に代わるものを設定しました。これがいわゆる「李承晩ライン」です。

もうお気づきかと思いますが、李承晩ラインの目的や思惑としては、独島を韓国領にするための布石というのは二義的で、韓国政府としては、韓国漁船が占有できる水域を確保するというのが、主要な理由でした。
実際、その後、李承晩ライン侵犯による拿捕や銃撃は、独島周辺海域ではほとんど発生していません。まあ、それほどの漁場ではないので、日本漁船もこの水域にはあまり出漁しませんでした。

韓国にとってのマッカーサーライン(SCAPIN-1033)や李承晩ラインを理解する際、これは重要なポイントです。過度に独島をはじめとする領土の問題に引き寄せてしまうと、これも視野狭窄の原因になります。