◆独島が日米協議のうえ、再び米軍の爆撃訓練場に

少しだけ時系列が飛びます。
同年(1952年) 7 月 26 日 、日米合同委員会が独島(竹島)を米軍爆撃演習場に再指定しました。戦後、連合軍の日本占領下、SCAPIN-677によって主権の行使を暫定的に停止された独島は、1947年9月のSCAPIN-1778をもって、米軍が爆撃訓練場として使用してきました。このため、1948年には独島に上陸した鬱陵島の漁業関係者が爆撃の犠牲になったことは第1話で述べたとおりです。
その後、米軍は爆撃訓練場としての使用を中止しましたが、1950年7月に、 SCAPIN-2160をもって、独島を米軍の海上爆撃演習地区として指定し、訓練を再開していました。

こうして、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効の日を迎え、SCAPIN-2160も失効して、独島は日本の主権下に入りました。しかし、米軍は引き続き、独島を爆撃訓練場として使用したい意向を示したため、日米合同委員会は、日米行政協定(当時)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の 1 つとして独島を指定したわけです。それに先だって、島根県は同年 5 月 20 日に、外務大臣と農林大臣に「島根県隠岐支庁管内竹島を駐留軍の爆撃演習地より除外されたい」という陳情書を提出していましたが、この陳情はかなえられませんでした。この日米合同委員会の決定は、同日付(1952年7月26日)の官報に公示されました。

このプロセスに注目してください。米軍は、独島の領有権が日本に帰属すると認識していたために、日本政府の許可・同意を取り付けたわけです。アメリカが「サンフランシスコ平和条約」第2条の解釈で、日本が独島の領有権を放棄していないと認識していた証拠の一つと言えます。

この時点の日本政府は、前年8月10日のラスク書簡の存在を知りませんから、こうした事実を含めて、「サンフランシスコ平和条約」第2条の解釈を確認したことは確かです。それは同年5月23日の衆議院外務委員会での政府答弁からもうかがえます(衆議院外務委員会議録26号 昭和27年5月23日 28頁) 。

◆再び韓国人が独島で、米軍の爆撃訓練に巻き込まれる

1952年9月15日、独島で操業中の鬱陵島の漁業関係者が再び、米軍の爆撃訓練に巻き込まれる という事件が発生しました。彼ら漁業関係者は危うく難を逃れ、1948年のような犠牲者は出ませんでした。
この時、鬱陵島には、韓国山岳会(旧・朝鮮山岳会)主催の第2次鬱陵島独島学術調査団が鬱陵島に滞在していました。これを知った鬱陵島独島学術調査団が報告を行ったことで韓国政府に知られることになりました。また、鬱陵島独島学術調査団もこの事件で、独島が再び米軍の爆撃訓練場になっていることを知り、独島の調査を断念しました。

独島が爆撃訓練場となったことは、韓国政府は言うに及ばず、韓国のアメリカ軍やアメリカ大使館にも伝達されなかったのです。これは後に連絡不徹底との非難を受けますが、独島を日本領と認識しているアメリカ軍は、連絡の必要を感じなかったのかもしれません。

また、この事件に遭遇した鬱陵島の漁業関係者も、日本領の独島への不法上陸という認識はありませんでした。何しろ、韓国政府はこの時点においても独島を韓国領と主張していたことによります。いずれにせよ、こうした齟齬が生じさせた事件でした。
この事件は、韓国の新聞で大きく報道され、韓国内にアメリカ軍への非難の声が高まりました。

●1952年9月21日付「朝鮮日報」:「獨島또爆撃騷動 不安과恐怖에 싸인島民들 美軍飛行機로推定 獨島學術調査團이報告」
●1952年9月22日付「東亜日報」:「爆撃演習地 아님은 五空軍도 確認하고 있다 獨島無警告爆撃에 商工長官談」