◆独島義勇守備隊が独島に駐屯

これとほぼ同時期の同年4月20日、独島義勇守備隊(독도의용수비대)が独島への駐屯を開始しました。とはいえ、常駐ではなく、定期的・断続的な駐在でした。実力行使に出たわけです。

独島義勇守備隊とは、鬱陵島民が1953年に入って独島の韓国側保持を目的として結成した民兵組織です。洪淳七(ホン・スンチョル、홍순칠)隊長以下、33人の隊員が集まり、大部分が傷痍軍人・警察官で、純民間人4人も含まれていたとされています。当時は、まだ朝鮮戦争が続いていたため、韓国軍や韓国警察には余力がないため民兵組織として結成されたといわれています。

同年6月27日、日本の巡視船2隻が独島に現れ、独島義勇守備隊員6人をら追い出し、日本領の標識を立てていますが、独島義勇守備隊員は巡視船が引き揚げた後に、再び独島に上陸しました。このことを伝え聞いた李承晩大統領は、慶尚北道警察に指示して迫撃砲1門と弾100発を義勇隊に支給させました。この時、独島義勇守備隊員は、韓国軍の標準装備のM1ガーランドとM1カービンで全員武装していたほか、さらに速射砲1門も持っていたともいわれます。

翌1954年4月21日、独島義勇守備隊は独島に接近した日本の巡視船と交戦し、巡視船1隻を撃沈したと主張しています。日本側の記録では、巡視船が発砲を受けて損害を蒙ったことが確認できていますが、撃沈された巡視船はありませんでした。また、日本側の記録では、韓国の官憲から攻撃されたとされていますが、これは間違いで、隊員が何らかの制服を着用していたため、独島義勇守備隊員を官憲と誤認したことによるようです。

独島義勇守備隊の独島駐屯は、1956年4月に、韓国内務部治安局の慶尚北道警察局鬱陵警察署の武装警察官8人が常駐するまで続き、独島義勇守備隊は同年12月25日をもって解散しました。

この独島義勇守備隊の独島守護はきわめていい加減で、時々独島にやってきては、任務に就いたという不真面目なもののようです。ですから、日本人は1956年に至るまでに、結構な頻度で独島を訪れていました。

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1953 年7月13日、日本政府は、韓国政府への口上書をもって「竹島(独島)の領有権」の見解を表明しました。
同月内に、卞榮泰・外務部長官は、『日本が独島を奪おうとするのは、韓国を再侵略することを意味する』という声明を発表して非難しました。
これによって、独島が日本政府と韓国政府間の直接的な懸案になっていきます。
この同時期、韓国山岳会の幹部は、外務部に対して「独島研究会」を組織することを提言しました。これは 7月 13 日付の日本政府の口上書に対応した動きと考えられます。
韓国政府の口上書(最初の韓国側見解)が日本政府宛に発信されたのは同年9月9日でした。

アメリカも、これを日韓間の領土紛争とみなし始めます。そして、アメリカはこの紛争に対して、第三国として距離を置くようになります。これは、冷戦下の北東アジアにおいて、西側に属した日本と韓国のいずれか一方に加担できないという配慮が大きくなってきたためでした。当時の北東アジアの地図を見るまでもなく、日本・韓国・台湾以外は、東側として、ほとんどの領域が赤く塗りつぶされていたわけですから。

第7話は、韓国の領土主張に注目しながら、日韓の独島論争について触れてみたいと思っています。
(つづく)

※下の写真は、1952年末の独島(竹島)。
産経新聞が1952年12月に撮影し、翌53年1月1日付同紙に掲載された。

毎⽇新聞 (1953年2⽉28⽇)  「⽵島領有を確認 韓国国防部で声明」

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