◆日本政府としての初の領有権の主張が行われる

この事態を重視した日本政府は翌7月13日、独島の領有権の見解を表明した口上書を韓国政府に送付します。この口上書で、日本政府は、独島が日本国領土の一部であることについての歴史的事実及び国際法上もなんら議論の余地のないころを、根拠をあげて表明しました。この口上書は、韓国外務部政務局編『獨島問題概論』(1955 年)の「第 4 節 独島領有権理論に関する交換覚書」にも掲載されています。これが日本政府の公式な領土主張の最初でした。
同年7月24日には、島根県水産大会で竹島問題解決促進が決議され、いよいよ、独島の領有権問題が日韓の外交問題として浮上してきたわけです。

7月13日付の日本政府口上書における、独島に関する⽇本政府⾒解の要旨は以下のとおりです。
(1)過去に竹島あるいは磯竹島という名称を有していた島は、現在欝陵島と呼ばれて来たもので、現在の竹島は松島として知られていた。(韓国側に、「竹島」の名前の変遷を誤解した主張があったようです)
(2)鬱陵島(当時の日本名は「竹島」ないし「磯竹島」)に関して、1693 年(元禄6年)に日朝間で領土紛争が生じたが、そのころの竹島(鬱陵島)は現在の竹島(独島)とはとは何らの関係のないものであった。
(3)このように、日朝間に存在していたあらゆる衝突は欝陵島に関するものであり、現在の竹島は両政府によって論争されたことはなかった。
(4)文献・古地図に、現在の竹島が古昔には松島として日本に知られて日本領土の不可欠の部分と考えられたということを明瞭に示している。
(5)上記の歴史的事実を離れて国際法の見地から竹島が日本領土に包含されたことはいささかも疑うところはない。1905 年2月22日付の独島の領土編入の国際法上の正当性・有効性を述べている。
(6) 1946年1月29日付のSCAPIN-677は、施政権(主権)行使の暫定的な停止命令であり、領土の再画定とはみなされない。1946年6月22日付の SCAPIN-1033も、占領期間中の漁業の操業の可能範囲を定めたもので、同様に領土確定とは何ら関係がない。
←The ROK Government´s Views concerning Dokdo in the Summer of 1953: The Korean Government´s Refutation of the Japanese Government´s Views Concerning Dokdo (“Takeshima”) , July 13, 1953.

◆韓国政府は、日本の領有権主張の反駁のための基礎資料調査に着手

この7月13日付の日本政府の口上書に対して、まず、韓国・外務部の卞榮泰(ビョン・ヨンテ、변영태)長官が同7月中に、反論のコメントを発表しました。
その卞長官の声明は、「独島は日本による韓国侵略の最初の犠牲地」として、「日本が独島を奪おうとするのは、韓国を再侵略することを意味する」という内容です。この内容を見ても明らかなとおり、韓国政府は反論できるきちんとした材料をもっていませんでした。
この卞長官声明後、韓国政府は、外務部の独島問題調査委員会に対して、7月13日付の日本政府の口上書の反駁書を作成するため、基礎資料調査とその収集を指示しました。同時期、韓国山岳会(旧・朝鮮山岳会)は、外務部に対して「独島研究会」を組織することを提言しています。独島領有主張の理論武装の必要性を説いたのでしょう。
つまり、韓国側の領有権主張の理論的根拠の整理は、この段階ではたいへんお粗末なものであったということです。また、韓国側の理論武装は、7月13日付の日本政府の口上書に対する反駁を目的に始まったということも留意すべき点です。

こうした中、崔南善(チェ・ナムソン、최남선)は、1994 年8月10日から 9 月 6 日までの「ソウル新聞」紙上で「鬱陵島と独島-韓日交渉史の一側面」と題し25 回にわたって連載を掲載しました。私は、この崔南善の連載が、当時の韓国政府の領土主張の根拠の理論の中核をなしたと考えています。

崔南善は、この連載の中で、鬱陵島の属島である独島が「新羅時代」から韓国の領土で、それは 512年にまで遡ることができるとしました。「独島は新羅以来の韓国固有の領土」は、今日の韓国の独島領有主張の一部ですが、その始まりがこれです。
さらに崔南善は、『粛宗実録』(朝鮮王朝実録)に注目し、そこに記された安龍福の供述証言を根拠として、「鬱陵島と竹島を朝鮮領である」と主張しました。また、『正宗実録』の記述(1794 年に捜討官韓昌国が「可支島」で「可支」2 頭を捕らえたという記録)に注目し、「可支島とは独島」との推論を披露しました(連載第20回 1953年9月1日付)。これも、今日の韓国の独島領有主張の一部ですが、崔南善に由来するものです。

しかし、その後、大きくクローズアップされる「于山島」は、『世宗実録』ほかのものですが、この「于山島=独島」仮説は、この段階では登場しません(崔南善はこの段階で『三国史記』「新羅本記」の「于山国」には気づいている)。韓国側で、自国の古文献の調査・研究が進む中で、「于山島=独島」仮説は追加的に登場してくるわけです。
ただ、崔南善のいう「可支島=独島」にしろ、「于山島=独島」にしろ、文献解釈上の仮説です。今日においても、その立証はなされていません。
この連載の日本語訳(全部ではない)は、以下のサイトに掲載されていることを確認しました。
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/a.html