◆韓国政府の初の公式の独島領有主張(見解)

韓国政府が1953年7月13日付の日本政府の口上書に反駁する形で、独島領有に関する初めての韓国政府見解を示したのは同年9月9日のことでした。
それに先だって、韓国海軍は前月の 9月3日、 「李ライン侵犯船は撃沈する」との声明を発表。続いて、 9月8日には、 韓国政府は、李承晩ライン内からの日本漁船の退去を命じる声明を発表し、 拿捕を強行し始めました。これは、明らかに独島および独島水域も意図したものでした。

さて、この韓国政府の口上書(反駁書)は、駐日 代表部覚書という形で日本政府に送付されました。その要旨は以下の通りです。
(1)鬱陵島・独島の真実の歴史的事実は、韓国側によってその島が発見され、独島は韓国領土の不可欠の部分であることを明白に示している。
(2)欝陵島が羽陵、武陵、欝陵島などと呼ばれるようになると、独島は于山あるいは三峰島と呼ばれるようになった。そして、そういう中で、独島は次の背景によって独島という現在の名称を持つこととなった。 ……ここで初めて、「于山島」および「三峰島」が登場した。三峰島は『成宗実録』等に登場する。
(3)『世宗実録』の「蔚珍県」の条に「于山と武陵がこの県の東方の海中に位置し、両島の距離がそれほど離れていないので、天気が良いときにはこれら両島は互いに望み見ることができる。」(于山武陵 在県正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見也)との記述がある。……これは『世宗実録』本体ではなく、『世宗実録地理志』にある。
(4) 独島は李朝初期から三峰島とも呼ばれてきた。李朝時代の最も有名な文献書籍の一つである『東国與地勝覧』によれば、西暦 1476 年に金自周を頭領とする現在の独島の韓国視察団が三峯島に渡航し、その結果を当時の政府に報告している。
(5)『粛宗実録』によれば、1696 年に安龍福を含む韓国人が欝陵島と独島に行き、日両島が韓国に属することを言いつつ厳重に警告した。
(6)1906 年の欝陵島郡守である沈興沢によって提出された韓国政府への公文書において「我が郡に属する島嶼である独島」(本郡所属独島)と読める一節がある。

同年7~8月に、韓国政府は、自国の歴史文献の調査を集中的に行ったことは明らかで、この段階で、今日の独島領有主張の歴史的根拠の代表的なものが出そろったことがわかります。

ただし、残念なことに、そのほとんどが、文献解釈上の仮説・推論です。この仮説・推論の証明が今日に至ってもなされていないというのが現状です。また、日本側からは、これらの仮説・推論が提起されていますが、その再反論も用意できていません。
その日韓の論戦については、ここでは記述しません。分量が膨大になります。いずれ機会を改めて。

なお、こうした歴史的権原は、今日の独島の領有権が日韓いずれに帰属するかの議論においては、副次的なもので、決定的な論点にはなりません。まあ、崔南善ほか、韓国の国史学者が領有権主張の主役になってしまったという、この段階からの方向性が間違いで、これが今日の韓国側の領有権主張にも主要な影響力を与えてしまっているという問題を残しました。

同時期、日本政府と韓国政府は日韓会談の第3次交渉を行っていましたが、独島の領有権の問題は韓国政府側から議題として取り上げることを拒否されてしまったため、口上書の応酬だけで、具体的な交渉に入りないまま推移していきました。

◆日韓領有権紛争をめぐるアメリカ政府の認識

アメリカ政府は、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効以降、「独島」の問題については、第三者(第三国)の立場をとるようになります。ただし、アメリカ政府は、ラスク書簡を通じて韓国政府に、同条約第2条aの解釈(つまり、日本が独島の領有権を放棄していない)を伝えており、この解釈の立場に立っていました。独島の爆撃訓練場としての再使用を日本政府とともに決定したことも、その一つです。同じころ、韓国においては朝鮮戦争の休戦協定が結ばれていますが、朝鮮半島は依然として不安定ですから、アメリカ政府と韓国政府が、アメリカにとっては些細な問題で、関係が対立することを望みませんでした。これは日本との関係も同様で、日本との対立も望みません。ですから、第三国(部外者)の立場で振る舞うようになります。
しかし、1953年に入り、日本政府と韓国政府の間の「独島」領有権をめぐる種々の対立を懸念していました。前述した1953年7月12日に 、 巡視船「へくら」が独島に上陸していた獨島守備隊から銃撃を受けるという事件が発生するに及んで、アメリカ政府は、日韓の武力紛争の事態に発展することを大いに危惧したわけです。

この件に関して、アメリカ政府の立場を物語るものに、同年7月22日付のBurmaster 覚書があります。この覚書で、アメリカ政府は、韓国政府が独島が日本領であることを受け入れるべきとの考え方を持っていたことが明らかになりました。
この覚書は、アメリカ国務省の極東局北東アジア部のバーマスター(Lenor Burmaster)による「日韓間リアンクール岩紛争のあり得べき解決策」(Possible Methods of Resolving Liancourt Rocks Dispute between Japan and ROK)と題する文書です。バーマスターにより、同じ北東アジア部の副部長マックラーキン(Robert J.G. McClurkin)と同課のダニング(Alice L. Dunning)に宛に作成、提出された国務省の内部文書です。
この中で、バーマスターは「(米国政府の立場・見解は)ラスク(David Dean Rusk)国務次官補の 1951 年 8 月 10 付通牒(いわゆる韓国政府宛の「ラスク書簡」)において述べられている」とし、竹島を爆撃して抗議をしてきた韓国に対し、米国政府の公式見解として、ラスク書簡の見解はサンフランシスコ平和条約締結以降も有効であり、韓国はこの見解(すなわち竹島は日本領であること)を受け入れさせるべきだと提言しています。
さらに、独島をめぐる日韓の紛争解決手段として、①日本の岡崎外務大臣が韓国との直接交渉を行う場合、②日本が米国に仲裁を求めた場合、③国際司法裁判所へ問題解決を寄託した場合(提訴した場合)、あるいは国連総会ないしは国連安保理に付託した場合--3つのケースを想定し、アメリカ政府がどのように対応すべきか提案を行っています。
https://en.wikisource.org/…/Possible_Methods_of_Resolving_L…