◆鬱陵島・独島学術調査団の独島再上陸、調査・測量を行う

こうした情勢の中で、韓国政府は、独島の実効支配に向けた動きを活発化させていくことになります。

1953 年10月15~16日、 「鬱陵島・独島学術調査団」が独島(竹島)に上陸し、同島の調査と測量を実施しました。
鬱陵島・独島学術調査としては3回目、独島の上陸調査に関しては、1947年8月以来、2度目でした。1947年8月17日に、朝鮮山岳会による鬱陵島・独島学術調査が行われたことは第1話で述べた通りです。1952年9月、韓国山岳会は2度目の調査を実施しようとしましたが、独島に渡った鬱陵島の漁業関係者が米軍の爆撃訓練に遭遇、独島が再び射爆場(爆撃訓練場)になっていることがわかり、調査団は独島への渡航を断念した経緯があります(第6話)。
さて、この独島の実地踏査は、韓国山岳会(旧・朝鮮山岳会)が主催して、文教部・外務部・国防部・商工部・公報處が後援して行われました。
『檀紀 4285年(西暦1952年)7月鬱陵島・独島学術調査団派遣計画書』および『檀紀 4286年(西暦1953年)7月鬱陵島・独島学術調査団派遣計画書』 によると、調査団の団長は、朝鮮日報社主筆で韓国山岳会副会長の 洪鐘仁(ホン・ジョンイン、잡지명)、副団長は、ソウル大学校文理科大学国文科教授で韓国山岳会理事の李崇寧(イ・スンニョン、이숭녕)で、このほか柳洪烈(リュ・ホングリョル、유홍렬 ソウル大学校医予科部長史学科教授)、洪以燮(ホン・イソプ、홍이섭 高麗大学史学科教授・海軍戦史編纂室付)らが参加しました。
洪鐘仁らは、帰国後、朝鮮日報に独島レポートを掲載。これにより、韓国国民の独島への関心と領土意識を高めました。ちなみに、洪鍾仁は「独島に行ってきて」と題した手記を、1953 年 10 月 22 日から同年10月27日にかけて4 回にわたって、『朝鮮日報』に掲載しています。
※注)李承晩政権は年号に「檀紀」(檀君紀元)を正式採用していた。 「檀紀」(檀君紀元)の採用は朴正煕が廃止するまで続いた。

◆日本が領土標識を設置、韓国がこの標識を抜くを繰り返す

この独島への調査・上陸に対して、日本政府は不法上陸として、海上保安部(当時、現・海上保安庁)の巡視船「へくら」と「ながら」を派遣しています。しかし、調査団一行とは出会わなかったようです。第6話で触れた独島義勇守備隊の隊員も独島にはいなかったようです。

海上保安部は同年(1953年)10月18日に、「10月13 日に確認した東西両島の領土標識は撤去されて見当らず、東島山頂ほか三箇所に旗竿があり、西島付近の小島には二本の測量標識らしいものがあった」と発表しています。 この発表で、日本の海上保安庁が同年10 月 5 日に再設置した領土標識が、この調査団により、あるいはそれ以前に独島義勇守備隊により撤去されたことがうかがえます。海上保安部は、再び領土標識を設置しました。

これに関連して、1953年の「鬱陵島・独島学術調査団」に参加した朴燗桂は「島根県隠地郡五箇村竹島の九尺の杭は一週間もすれば鬱陵島警察署の焚きっけになるいわゆる杭戦争の島、問題の独島」(「独島測量」60 頁 韓国語)と書き残しています。
朴燗桂のいう「杭戦争」とは、日本が領土標識を設置し、韓国側がそれを引き抜いて、自国領土の標識を建てるといったことか繰り返されたことです。現地ではこういうことが何度か繰り返されました。

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このようにして、独島問題は、韓国の一般の国民も巻き込んだ、日韓の対立問題として変化していくことになりました。
(つづく)

写真は独島義勇守備隊

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