「おかあさん、あそこはどう?」風だけが答える日本岩手県の公衆電話
ソウル新聞
「もしもし、私だよ。おかあさん、あそこはどう?
“ ”
最初から電話線もつながっていないので答えが聞けると言って、公衆電話ブースに入って受話器を取ったわけではなかった。 海辺に荒い風の音が戻ってくるだけだ。 ただ他の誰の顔色もうかがうことなく、空に去って10年になる妻に深い話を打ち明け、思う存分泣いて懐かしむことができるからだ。
日本岩手県大槌村の鯨山中腹に桜の庭園の中央に白い公衆電話ブースが置かれている。 2011年3月11日、東日本大震災と津波で愛する人を失った彼らが惨事10周忌を迎え、語り尽くせなかった話を思う存分するようにと先月27日に初めて紹介した「風の電話」をロイター通信が5日に紹介した。

佐々木かずよしさん(67)は津波でこの世を去った妻·美和子の携帯電話番号を恐る恐る押した。 彼はどれだけ長い日、妻の行跡を探すためにさまよったかを説明した。 避難センターや遺体安置所をくまなく探した。 夜に家に帰ると中はゴミでめちゃくちゃだった。 「すべてが一瞬起こった。 今でも忘れられない。」もうすすり始めた。 「私の居場所を知らせるメッセージをあなたに送ったが、見ていなかった。 家に帰って空を見上げると数千個の星が見下ろしていた。 まるで宝石箱を見ているようだった。 僕は泣いてまた泣いた。 その頃になって私は多くの人々が死んだことを知った」この時、命を失った人と行方不明者は2万人を超える。
小川幸子(76)は44年間夫婦の縁を築いて、仕方なく先に逝った夫の東一郎に電話をかけた。 これまで何をして過ごしたかと夫に聞いた。 「寂しい」結局声が割れてしまった. 受話器を外しながら、夫に家族を見守ってほしいと頼んだ。 「もう切ります。 私もすぐ行きます。」
小川は夫が向こうで話すように感じる時があったと言った。 「そう感じたら、少しましだった」とも話した。 彼女は、「友だちから丘の庭にこんな電話があるという話を聞いて知った」とし、「たまには2人の孫も連れてきて、おじいさんと話をするようにする」と話した。
彼の孫ダイナ(12)は「おじいさん、もう10年になりましたね。 もうすぐ中学校に入ります」と自慢した。 おばあさんと孫がブースの中に入った。 「今回は新しいウィルスのため、また多くの人々が死んでいます。 私たちみんながマスクをしている理由です。 でも私たちはみんな元気です。」

東京から北東へ500キロ離れたこの村の公衆電話ブースを作ったのは庭園主の佐々いたる(76)だ。 氏は、東日本大震災の数ヵ月前、がんで従兄弟を失った。
「多くの人が愛する人に別れのあいさつさえできなかった。 これ以上話し合う機会がないと分かっていたら多くの家族が『風の電話』を作った理由を説明した。
今では公衆電話ブースが広く知られ、日本全国から訪ねてくる。 津波の生存者だけでなく、疾病と極端な選択で家族と親戚を失った人々まで訪れる。 同通信は、同じタイトルの映画も製作される予定だと伝えた。 数ヵ月前、佐々木氏には、「英国やポーランドにも、コロナ19パンデミック(世界的大流行)に愛する人を失った人たちが利用できる電話を作ってみたい」という提案があったという。
佐々木氏は「惨事のようにパンデミックも突然訪れ、死が突然訪れた場合、家族が経験するトラウマは長くなるもの」と話した。
佐々木かずよしは、妻の美和子に中学生の時に初めて会って、「愛している」と告白したが断られ、「10年後にまた付き合おう」と言って、初デートをしたという。 その後、結婚して4人の子どもがいる。
彼は最近、一戸建てを出て、末息子が建てた新しい家に引っ越し、孫たちと過ごしていると妻に伝えた。 電話を切る前に、最近体重が減った」と近況を伝えた。 「自分の体は自分が気遣わなければならない。 約束するよ。私たちが出会ったことを感謝しているよ。 ありがとう。私たちはできる限りのことはした。 うん、早く言ってみて。」
外には激しい風が吹きつけていた。
イム·ビョンソン平和研究所事務局長 bsnim@seoul.co.kr
コメントを残す