翻訳:崔榮黙(メディアトラジ管理者)

ナザレ院の院長のインタービューの中から(一部翻訳)

―何人を帰国させましたか。

「1972年から146人を送りました。 それで終わりだと思っていたのですが、1984年に最後に147回目の人がいました。”

-147番目は?

「1980年初め、日本の作家、上坂冬子氏が慶州(キョンジュ)に遊びに来て、『ナザレ院』の存在を知りました。 ここに一ヶ月間滞在した後、帰って『慶州ナザレ院』(1981年)を出版しました。 その後、日本のマスコミと社会団体の訪問が絶えません。 私がここで仕事を始めた時でした。 日本のロータリークラブの会員たちが訪問し、おばあさんたちに「必要なものはないか」と聞きました。 その時、小さいおばあさん一人が「ワタシノイノチ(私の生命)。 私は死んでも日本へ行く。 かばんに入れてでも連れて行ってほしい」と話しました。 その方が147番目でした。」

そのおばあさんの戸籍を探してみたら、「死亡」となっていた。 別の女性と再婚した韓国人の夫が、彼女を死亡届けてしまったの。 日本の身内をやっと探して尋ねると「うちで死んだ人」という返事が返ってきた。

「そのおばあさんは法的に両国のどこにも存在しなかったのです。 当時、日本の中曽根首相まで出たおかげで、「手荷物」として秘密裏に送り出されました。 その後、ここに住んでいたおばあさんの中で7人が日本の戸籍を取得することができました。”

あの方のストーリーはハッピーエンドですか。

「147番目のおばあさんは青森老人ホームに入りました。 そこで日本国籍を取得しました。 1年半後、日本のテレビでそのストーリーを制作するためにここに来ました。 放送スタッフと老人ホームの職員と一緒にです。 ところが、撮影が終わって帰る前日、おばあさんは「日本でとてもつらい。 ここにまた住みたい。 私は帰らない』と言い出しました」。

――瞬間的な感情だったのではないですか。

「韓国で30-40年間住んだので、向こうで適応できませんでした。 「口もキムチと味噌チゲに慣れましたね。 自分が動物園に閉じ込められたような気がしたんです。 朝日新聞では、日本に帰ったこうしたおばあさんたちの肉声で「私の祖国は冷静だった」と報道しました。”

――帰らないという147番のおばあさんはどうなりましたか。

「おばあさんに『また来られるようにしてみます』と、やっとなだめました。 おばあさんは車窓を通じて「院長、どうかどうか」と叫びました。 涙ぐんで、、、

メディアに露出を拒む”ソン・ミホ”院長。

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