宇喜多秀家像(岡山城蔵)-ウィキーより

ライター:崔榮黙(メディアトラジ管理者)

以前、流人と言う映画をユーチューブで見たことがあって、その背景は八丈島だった。へぇ、八丈島は観光地として知っていたのに昔は島流しの場だったなんて。そう言えば、陸地から相当離れている島なので理解できないもんでもないし、調べて見たら宇喜田秀家の流刑地だったと紹介されているし、彼は明治政府により罷免されたとのスケールの長い話に感心した訳であった。

秀家は1572年直家の次男として生まれ、1581年に直家の死により秀家9歳の時に家督を引き継ぐ。さて、上に兄貴がいたはずなのに何故次男が家督を引き継ぐことになったか疑問に思うのだが。

1592年、文禄の役の時に弱冠二十歳で大将として出陣。個人的に記憶に残っている秀吉軍の武将としては、一軍先鋒隊先鋒長の小西行長公と蔚山戦いの加藤清正と水軍を率いって巨濟島を占領した藤堂高虎、閑山島海戦で李舜臣に大敗を喫した脇坂安治であるが宇喜田秀家はあまり記憶にこざる。1598年、日本に戻り秀吉より五代老に任じられる。その時の歳が弱冠26歳、秀吉より相当可愛がられたとは言え相応する才能があったからこそか。ようわからないけど。

1600年、関ヶ原の戦いでは当然と言うべきか、家康に対抗して西側に参戦、その軍勢が1万7千に及んだと言うが、小早川秀秋の寝返りによって敗戦になり伊吹山へ逃げ込み、落ち武者狩りの矢野五右衛門に見つかるが寧ろ匿ってもらえたからというから人徳があった人物だったのか。その後薩摩藩に逃れ島津義広の保護を受けるがその後島津忠恒に時に家康に身柄を引き渡されるにことになり、1606年八丈島に流刑に処されることになった。
そう言えば、父の代に保護されたが息子の代に保護を受けれなくなったケースは鎌倉時代に源義経もあった。
流人の映画では、飢饉になると八丈島では沢山の餓死者が出たと言うのだが、秀家は島で50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと言う。島を管轄してる源の家によく招待され宴を楽しんだと言う記録が残っているのだが、何?鎌倉幕府を開いた源頼朝の子孫が八丈島に渡りそこを支配していたと言うのか。この辺は、鎌倉幕府が滅びた後室町時代になり、その後戦国時代を経て鎌倉時代に権力を握っていた源家がその後どんな道を辿ったのか調べる必要があると思うのだが、、、

1616年、宇喜田秀家44歳の時に刑が解かれ前田家から10万石を与えられるから大名へ復帰するよう勧められたが断ったなんて。1万石になると大名だと言うのに10万石ならある程度規模のある大名だと言えるが何ぜ断っただろう?疑問に思うところである。

1655年、秀家84歳の時にこの世を去る。江戸幕府も将軍が変わり4代目将軍徳川家綱に変わっていたと言う。寿命が今より短かった時代とは言え結構長生きしていた。明治時代になり赦免されることになった。関ヶ原の戦いは天皇家は関係ない時の権力者たちの戦いだったから明治政府としては赦免できない訳がなかっただろう。1600年に関ヶ原で敗戦しその後流刑になり、1616年に刑が解かれ時代が変わり明治政府により赦免されるまで、宇喜多秀家の物語りは日本近世史を貫通する壮大な歴史である。