申 砬の忠州の戦い 朝鮮の最高の武将から最悪の武将に転落す

NHK大河ドラマ「どうする家康」は12月に入り終盤に差し掛かっているところである。先月は関ケ原の戦いが終わり、あと冬の陣と夏の陣を残しているところで、家康が江戸幕府を開くことが出来たのは色々要因があるが、その中で一番大きな要因の一つで家康の長寿だったと思う。長寿するからと言って何かを成し遂げることができるかと言えばそうではないが、長寿できたからこそ成し遂げることができた事例はたくさんあると思う。以前読んだ瞽女出身の小林ハルさんが一つの良い事例ではないかと思う。

兎も角、秀吉の政権下で起きた出来こととして朝鮮出兵は大きな出来ことだったに違いないけど、それを口先で済ましてしまったのはなにことだ、と思うところである。ある歴史講義では朝鮮の武将で李舜臣をエースだったと表現したけどそうではない。

当時、朝鮮の武将の中で一番名が知られていたのは申 砬(シン・リプ)で、この人は満州の女真族との戦いで活躍し沢山の戦功をあげた人だったので、文禄の役の時、釜山に上陸し釜山を守っていた朝鮮軍を次々と破り、破竹の勢いで北進する小西行長公が率いる秀吉軍を阻止せよと朝廷からの命を受け出陣したのである。
やがて両軍は忠州の戦いとして知られている忠州で対峙することになり、朝鮮のエース申 砬と秀吉軍の第一軍先鋒隊の先鋒長である長行公との間で一進一退の激しい戦いになると予想していたが、いざ、蓋を開けてみるとあっけなく申 砬の敗退で終わったのである。この戦いで、朝鮮軍は敗退の一途を辿ることになり、朝鮮の王である宣祖は北へ北へ避難の道を余儀なくされた。

この戦いは結果だけを見ると、どこかの戦いと似てるなと思わせる。そう「関ケ原の戦い」である。
韓国に於いて、文禄・慶長の役はその比重が結構重く、中学や高校の歴史時間に学ぶのである。授業では、もし、申 砬が軍官(参謀)である金汝岉の助言通り、忠州にある鳥嶺という険しい峠で陣取ったらそんなに虚しく負けはせんかったのにと申 砬の無能さを貶めた。多分、韓国の歴史を教わった人の殆どが同じく険しい峠を捨て平野で陣取ったから負けてしまった申 砬を非難ばかりすると思う。
それから何年前か、その時何故申 砬は険しい峠を捨て平野である忠州に陣取ったのかについて解説した専門家のユーチューブ動画と文書を読んだことがあった。文書では、どうせ峠を越える道は沢山あるので少ない兵力でそれを全部カバーするのは無理だから峠を捨て平野である忠州に陣取ったと。
この意見には同意しがたい。なぜなら、峠を越える道が色々あるにしても兵力が越える道は限られているから。軍が移動するときは人だけじゃなく物資も同時に動くのでそれなりに道らしい道が必要である。
もう一つのユーチューブ動画の意見は、成程と思った。それは申 砬の性格や事柄に焦点を当てて類推したからである。前にちょっと触れたが、申 砬は文禄の役の前に満州の女真族との戦いで戦功をあげたが、この時に使ったのが騎馬隊であった。なので申 砬は自分になれている騎馬隊戦術を駆使して小西軍を向かい撃とうとした。しかし、彼の望みと朝廷の期待を裏腹に負けてしまい、彼は川に身を投じ自殺してしまったのである。

この戦いの戦術は、騎馬隊の申 砬軍と火縄銃で武装した小西軍。結果は火縄銃を持っていた方が勝利した。これもどこかの戦いと似てない?と思ったらそう、長篠の戦と似ていて、戦術が眼に見えていた小西に申 砬は勝てるはずがなかった。
歴史に仮定はないが、もし申 砬が鳥嶺という険しい峠に陣とったらどうなったか。小西軍が勝つにせよ負けたにせよ、大きな対価を払わなければならなかったのであろう。
確かに、申 砬の率いる部隊は訓練されていなかった兵士が多かったとしても、土地感を生かし地形・地物を有効に活用し戦いに臨んで行けばかなり有利な戦いに運んだに違いない。仮に軍隊が訓練されなかったとしても一回の戦いで相当な訓練効果を得ることができる。また、申 砬は朝廷からの厚い信頼を受けていたので支援も受けやすかったのである。たださえ歩き越えることが大変な山道を武装した故に敵から向かい打ちされる状況になると、戦意喪失は必至。

当時の日本軍は戦に強かったので勝てることができるのかという疑問が生じるが、一次晋州城攻防戦で3000の兵力で朝鮮軍は守ったのである。また、李舜臣が率いる海軍は地形・地物を最大限有効に活かしゲリラ作戦で日本軍を相当苦しめたのである。さらに、加藤清正が籠城した蔚山城の戦いでは、城を包囲した朝鮮軍が攻撃をする際に兵士自らが積極的に戦闘に加わったという記録残っているという。

申 砬は、自分が好む戦い型を選びそれにかけて戦ったが時代の変化に対応することができず自分自身だけじゃなく国に大きな被害を残し歴史の表舞台から消え去ったのである。囲碁の格言で、定石を覚えた後忘れるべしがある。確かに定石は囲碁の打ち型では最善の手順であるが、その通り打てば負けは必至であろう。
時代の変化や流れにうまく対処できないと負け組になりうる一つの事例になると思うのである。

この峠は飛ぶ鳥も飛んで超えにくいほど険しいので「鳥嶺」という名がついた