最近ちょっと話題の「日傘男子」。昨今日本列島が高温化する仲、「男性も恥ずかしがらず日傘をさしましょう」という啓蒙活動で生まれた言葉ですね。

日傘と聞くと、レースやフリルのついた白いパラソルで、西洋のからもたらされたものと思いがちですよね。モネの絵画などの影響でしょうか?

実は日本にも昔から日傘なるものはあり、江戸時代には「男の日傘」が、幕府から禁止されたこともありました。

そもそも日傘っていつから使われていたの?

日傘という定義なのですが、古代からの祭祀用や呪術的な意味合いのものを含めると、かなり昔から存在しています。
4世紀末以降には魔除けの道具として、皇族や貴族・豪族など身分の高い人々が行列する際に頭上に高く掲げられた、「蓋(がい)」という覆いや、「繖(きぬがさ)」といわれる傘が権威の象徴として用いられていました。

繖は絹で織られており、実用性よりも儀式性が高い代物でした。殿上人の頭上を守るという意味合いでは、広義の「日傘」といっていいかもしれません。

「春秋鷹狩茸狩図屏風」岡田為恭筆 江戸時代後期(部分)

『醍醐花見図屏風』(部分)桃山時代

平安時代には、紙を張った「唐傘」が登場。こちらは雨を防ぐ実用性があったことから広まっていき、鎌倉・室町時代になると、公家や武家・社寺などの上流階級だけでなく庶民にも使用されるようになります。

江戸時代には「絵日傘」や「番傘」が登場
室町時代になり、和紙に油を塗ることで更に強度を増した雨傘が発明されたといいます。

安土桃山時代の文禄年間(1592~95)には、祭礼の時に子供が用いる五色に彩られた日傘が盛んとなります。これも魔除けの意味合いが強いでしょう。

江戸時代の四代将軍・徳川家綱から五代将軍・綱吉の1673~88年には、京都・大阪・江戸で花鳥や唐草などの模様を描いた「絵日傘」の生産が盛んに。これが婦女子の間で大流行。

現代の絵日傘


18世紀初頭(八代将軍・綱吉)の頃には、大坂で「番傘」が登場。さらに、青色の紙を張った「青日傘」が医師や僧侶が使用するようになり、それが婦人の間にも流行しました。

番傘はお店の屋号や店を表す「判」を入れていた「判傘」が転じて「番傘」になったと言われています。番には「粗末なもの」という意味が含まれますので、大量生産された安価な傘という意味合いに転じたのかもしれませんね。

歌川広重「名所江戸百景 日本橋通一丁目略図」

日傘は贅沢である!と幕府が禁止

寛政期に入ると、天保の大飢饉後に続く「寛政の改革」で緊縮ムードが世を覆ったのか、日傘の製造や使用が制限され始めます。

繰り返される贅沢禁止の御触れ!江戸時代の倹約令ではどんなことが制限されたの?

江戸時代、庶民たちに出された町触には、様々なものがありました。その中でも特に重要なものは、高札場に高札を出して提示されていたとのこと。風紀を正しくし財政再建するためには、倹約令が欠かせませんで…

寛延2年(1749)、京都で大人の日傘使用禁止のお触れが出ます。特に男性の日傘使用が厳しく禁じられたようです。

また、加藤 曳尾庵(かとう えいびあん)という水戸藩士で文人・医師である人物が記した随筆『我衣』には、江戸町奉行の水野備前守も日傘に対し苦言を呈したと記してあります。

文化・文政期(1804~30)になると、老中・松平定信が財政再建のため、いわゆる「贅沢禁止令」を発効します。娯楽本・髪型・簪の数、着物の柄や素材など様々なものが制限・制約されました。日傘を目にするのは歌舞伎の芝居道具か花魁道中ぐらいになったようです。


弘化年間(1844~47)に入ると、ようやく日傘が市中で見られるようになりますが、おおっぴらに解禁ムードになったのは幕末の嘉永年間(1848~1855年)の頃。男女問わず日傘は日常使いされていたといいます。

『千代田大奥御花見』 楊州周延(明治時代)

歌川国芳「勇国芳桐対模様」(嘉永初期)

あたかも日傘は西洋から入ってきた習慣のように受け取られ定着してしまいましたが、日本でも独自の日傘文化があったのですね。

https://mag.japaaan.com/archives/98274
参考:ミツカン水の文化センター