続いて、信長に対して本能寺の変で謀反を起こした『明智光秀』についてお話ししましょう。光秀が謀反を起こした理由は諸説ありますが、山崎の戦いでアッサリ討ち死にしたため、真相は闇の中です。若い頃の経歴も資料が少なくあやふやですが、それ故に歴史好きの想像力を刺激するんですよね。そんな光秀ですが、信長へ謀反を起こした理由の1つに『近視』が絡んでいる、という面白い話があります。

光秀は清和源氏の系統にあたる土岐氏の支流、明智氏の一族と言われています。通説では、斎藤道三に仕えて、その死後はしばらく浪人し、朝倉義景に10年ほど仕えたとのこと。義景への士官は鉄砲の腕を買われたようで、「30センチの的に45.5メートルの距離から命中させた」話や、「100発撃ったら68発が真ん中部分(黒星)に当たり、残り32発も的に当たっていた」などの記録が残っています。当時の鉄砲の性能を考えると、これは驚異的な腕前です。その後光秀は、足利義昭が朝倉義景を頼ってきた縁で将軍に仕えることとなり、織田家との仲介役に抜擢され、信長の家臣となります。

若い頃は、遠くの的を射抜くことのできる良い視力の持ち主だった光秀も、中年以降は『近視』だったという説があります。医師で作家の篠田達明先生は、光秀の肖像画で目が細く描かれている点に注目しました。近視の人は、遠くを見るときに目を細めますよね。また、光秀が50歳を過ぎてから書いた手紙の筆跡が見事なことから、近くのものは良く見える近視であった可能性を指摘しています。

光秀の人生の話に戻りましょう。実は光秀、信長の元で凄いスピードで出世しています。士官して僅か2年で城持ちを許され、天正8年(1580年)には、34万石の所領持ちに。信長が光秀を絶賛した話もあり、小説などでよく使われる信長への怨恨説は、あまり根拠がないとも言われています。

しかし、ココはあえて「光秀は近眼のため、信長の表情が読めなかった」「近眼で目を細めるため、信長からガンをとばしているように見えた」→「信長の不興を買って冷遇」→「謀反へ」と考えてみましょう。近眼が謀反の一因であるなら、『良いメガネ』があれば歴史は変わったのかもしれませんね。

余談になりますが、光秀は愛妻家としても知られています。嫁入り前に疱瘡(天然痘)にかかってしまった妻・煕子(ひろこ)の痘痕(あばた)を気にせず結婚し、彼女が死ぬまで側室を持ちませんでした。

痘痕があっても煕子は美人だったようで、「明智光秀の妻は、天下一の美女である」との噂を聞いた信長が煕子登城を命じ、物陰から現れいきなり抱きついたという逸話もあります。この時、信長は驚いた煕子に扇子でこっぴどく叩かれたようですが、もしかして光秀の謀反は、これを根に持って……?