時代は戻ってしまいますが、現代で問題になっている『生活習慣病』のお話もさせてください。平安時代の貴族として栄華を極めた『藤原道長』のお話です。

実は道長、若い頃から出世コースに乗っていたわけではありません。父、藤原兼家は摂政・関白の座についた有力者でしたが、道長は五男。五男が跡継ぎになれる可能性はほぼなく、道長は兄の影に隠れる存在でした。

しかし、道長が29歳の時に転機が訪れました。父の跡を継いで関白の座にあった長兄・道隆が病死、その7日後には次兄の道兼も病死し、道長にチャンスが回って来たのです。

その後、甥の伊周との争いに勝ち貴族の頂点に立った道長は、娘を天皇に嫁がせ、生まれた孫を天皇に。そうして天皇の外戚として権力を固めた道長は、

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

と大満足で和歌を詠んだのでした。

しかし、栄華を極めた道長は、ある病気に苦しめられていたのです。それは、栄華故の病気とも言えるかもしれません……その病気は、ずばり『糖尿病』です。

糖尿病は、すい臓から出るインスリンの作用不足により、血糖値が高くなる病気です。高血糖が長く続くと血管が傷み、様々な合併症が出てきます。このうち微小血管障害によっておこる「神経障害」「網膜症」「腎症」は糖尿病に特有の症状であり、『糖尿病の3大合併症』と呼ばれています。

文献の中には、道長が糖尿病だったことがうかがえる記述があります。同時代の貴族が書いた『小右記』の中に、道長は51歳頃から「口が渇きやたらと水を飲むようになった」と書かれていて、これは糖尿病、特に血糖が高い場合に見られる症状と一致します。『小右記』の作者は、道長について遠慮なく書いており、ずばり『飲水病(糖尿病)』と病名も記しております。

道長自身が33歳から56歳にかけて書いた『御堂関白記』にも、糖尿病の合併症を疑わせる記述があります。寛仁3年(1019年)、道長が53歳頃の日記に「心神常の如し、而し目尚見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物のみ之を見る」と、視力の低下を嘆く記述があり、糖尿病性網膜症ないし、糖尿病による白内障の悪化が疑われます。糖尿病は遺伝的要素も強く、家族歴も重要です。前述の長兄・道隆、甥の伊周、そして伯父の伊尹(これただ)も、糖尿病であったと伝わっています。

道長は、長男の藤原頼通に自身の官職を譲り、その翌年に62歳で亡くなっています。当時としては長寿と言える年齢ですが、生活習慣に気を付けてもっと長生きをしていれば、藤原氏の栄華がさらに続いたかもしれませんね。