翻訳:崔榮黙(メディアトラジ管理者)
この体験談はハングル文字で書いていたもので、ハングルレベルは相当高いけど意味不明なところがあって精読し直したところがあり、一部表現を自主的に直して翻訳したのである。( )内の表現は翻訳者の主観で有る。

初めまして!
私の体験談をお話します。

写真は参考イメージ

私は自然豊かな農村で生まれました。 地域の特性上、兼業農家が多く、経済的に平均的な家庭が多かったです。 家族は両親とお婆さんそして私を含めて 4人でした. 何の不自由もなく成長して友達も多かったし運動が好きでした。 そんな私が高校を卒業し両親のもとを離れてキリスト教系の短科大学に入学しました。 1984年のことです。 寮に入って勉強とサークル活動で充実した日々を送っていました。 ところが就職活動が始まった2年生の秋の引退試合で問題がありました。 それまで努力した時間と結果は正比例するという経験を持っていた私ととっては、その問題は急に襲ってきた災難のようなもので、人生初の挫折でした。 他のチームの仲間たちは、一人二人何もなかったかのように気分転換をしていったのですが、私だけは問題を起こした人を許せずにいました(何があったかわからないけど)。 本を読んだり先輩たちに聞いたりしたんですが、気持ちが楽ではありませんでした。 どうすればいいか分からず悩んでばかりいる自分が嫌になりました。 そのとき、前にアンケートに答えようとしてもらっておいたパンフレットが学生手帳にはめ込まれていることを思い出し、電話をかけてきました。 そこはテレビセンターでした。

2)テレビセンターを通いながら就職が決まり、クラハラ講師の堕落論にすごく感動して、何かいいことが起こりそうな感じを受けました。 その後、家の近くに就職して、職場に通いながら暇ができ次第、お礼に出かけて(たぶん経済活動)、献身したい気持ちまでできました。 その後、両親に仕事を辞めて神様の仕事をしたいと 9ヶ月間もみ合って最後には父が木を切るのに使う鎌を持って来て首に突き付けて、それでも行くのかと叫びましたが私の決心は搖れませんでした. 今、両親がわかってくれなくても、きっとわかる日がくると信じて、神様、真の御父母様(文鮮明だけを思いました)
3)(ここで辞めたら)天を悲しくさせてはいけないと思い、決心はもっと固まっていきました。 1986年に献身し、伝道機動隊、マイクロ(活動)
4) 21週(修練会)、メキシコ(おそらく販売活動)
5)などで数ヶ月から数年単位で移動していました。 休日は月に一日、朝は蕩減条件を(蕩減とは、神様に私たち人間が犯した罪を棒引きにしてもらう為に立てる条件のことを言い)
6) ために早起きし、一日中経済割動に励み、休まない日々を過ごしました。 しかし、地上天国の実現のための摂理のために、『私がしなければ、だれがやるのか』という責任感から、熱く熱くなった日々を送りました。 たまに兄弟姉妹が一人ずつ脱退するのを見たり聞いたりしましたが、献金問題で辞めたアダムエバだったと思いましたし、反対牧師に引っかかったという理由だったのでサタンに要件を満たさないようにもっと信仰に精進しました。 その中、1992年の献身的な活動から7年間、韓国ソウルで行われた山崎弘子さん、桜田順子さんも一緒にした3万組の合同結婚に参加することになりました。 統一教会の教理としての最高の祝福と希望が実現したのです。 私の主体者は
7)同じ年で自営業をしてました。 姉は124組で、(祝福の先輩家庭)

8)真の御父母様(文鮮明・韓鶴子)の洋服を仕立てたり家に遊びに来て食事もする家柄だったという話を聞いたときはとても信仰心の深い家柄でよかったと思いました。 合同結婚式が終わって、また日本に帰ってきました。 それまでは日本での摂理を推し進める経済活動でしたが、今回は韓国に渡るための生活費など滞在費用を稼ぐために体育施設でアルバイトをしました。 それだけでは物足りなかったので、実家に助けてもらいました。 献身して4年くらい経った頃、祖母と父が病気でお亡くなり、お母さん一人だけが残りました。 母は「あの人が日本人だったら良かったのに、(娘が)苦労するだろう」と心配していました。 家へ来るたびに、隣の布団からすすり泣く声が聞こえてきました。 けれども、お母さんの心配は、自分に全く響かないのです。 何を言っても聞かない娘をあきらめたのか、お金をくれて、私は韓国に渡る最後のグループと一緒に祝福の後半年ぶりに韓国に行きました。 韓国では修練院に集まって新聞配達の地域などが決まるまで数週間を過ごしました。 また、主体者(主人)が訪ねてくることもあり、婚家に挨拶に行く日程などを決めました。

ところが、(夫の)両親に会った日に突然病院に案内されました(U氏本人が)。 それは私がメッコールに所属していた時に交通事故に遭い、腰の痛みを心配したことだったのですが、すぐに診断書をもらって日本に帰れと言われました。 「アルバイトをして稼いだお金、母からもらったお金でやっと韓国に来たのに、納得がいかなかったです。 言葉が通じない韓国の幹部には相談ができず、霊能力家が6500組だったので相談したら、最初が大事だから、言われた通りにするのがいいし、家庭部(協会内の組織)からも半年の性別期間(夫婦別居期間)があるそうで、3週間で実家に戻りました。 突然帰ってきた私を見た母は驚いていましたが、尋常でない表情で何かを感じたのか何も言いませんでした。 しかし、私は間違えれば祝福が駄目になるかも知れないという危機感から、1ヵ月後、再び主体者を訪ねました。 そこで互いに辞書を引きながら話を交わしました。 「主体者の結論は、統一教会の教理は誤りであり、自分は統一教をあきらめ、祝福もなかったことにしようとするが、一人でも救出したいので、一緒に統一教をやめようということでした。 そして、なぜ教理が間違ったのかを説明し始めたのですが、あまりにも衝撃的でした。
今まで何の疑いもなく一生懸命歩いて来た私の信仰に初めて小さなひびが入るような気分でした。 しかし、霊的親(先輩家庭)に相談した結果、虚偽の脱退をし、その主体者を伝道しなさいという目標が与えられました。

韓国から帰ってきては主体者の兄貴が住む千葉に行くと言ったり、韓国に行くと言ってお金を渡したお母さん、再び夫が来るようになったという私、お母さんはどんな気持ちだったのだろうか。 自分の信仰と祝福だけ関心を持つようになった私には、母の悩みを分からずにいました。 (実家で)主体者と暮らし始めてから2ヵ月後に、母は自ら命を絶ちました。 おばあさん、お父さんの三年目の祭祀が終わって、少しは気楽に過ごせるかと思った時でしたが、お父さんとおばあさんの看病、そして親戚たちから非難を浴びてきたお母さんでした。 母を伝道して気楽にしてあげたかったのですが、でもそれがお間違いだとは知らず、主体者には嘘でもそう言ったのに、(母にも嘘を言ったら)こんな事までは起らなかったのに、私が母を殺したという思い、また、母に捨てられたという思いなどで、感情がごちゃごちゃになっていました。 なによりも、すべてを犠牲にして信仰のために努力してきた結果は、期待とは裏腹に悲惨な状況で、何がどうなったかさえ考えられなくなりました。 そして親戚と相談した結果、統一教を脱会すれば結婚を認めるので家に帰って両親の祭祀を守ることを約束して家に帰ってきました。

家に帰ることに大賛成だった主体者でしたが、日本語が分からず農村の閉鎖的な雰囲気と差別に精神的に不安定になりました。 私は、気分転換のためにいろいろ考え、励ましたけど、(夫は)物を壊し始めました。 壊れたものはゴミ箱、ラジオ、椅子、テレビなど数えきれないほど投げ壊しました。 そうして私にも投げました。 最初は物を壊すのが数カ月に1度だったのが、子供が生まれてから子供の面倒を見るのに時間が長くなると、その期間(暴力)はどんどん短くなり、さらにひどくなりました。 殴ったり蹴ったりする暴力を振るったりもしました。 でも、たまには申し訳ないと思っていたので我慢していたのですが、どんどんひどくなって、繰り返しに雰囲気が険しくなって、子供を抱いて家を出ることになりました。 そして、とにかく統一教へ行って相談したい気持ちで、霊的親に相談しに近くの教会に行きました。 「今の主体者と別れるなら、その後帰って来いと言われて祝福を守るために犠牲になってきた私には、信じられませんでした。 そして教会にも行けなくなりました。 その次からは私の信仰が弱くてそうだと考えて霊的両親に相談して(夫に)騙して原理講論を読んだりもしました。 そんなときは喧嘩が酷くなり、原理講論を読むのが怖くなりました。

主体者から「私が悪いから習慣から直さなければならない」と言われながらも、祝福を守るために忍耐しながら5〜6年間生活していたところ、二番目の子が生まれました。 男の子だったので、主体者も喜びました。 これを機会にして家庭を新しくしようとしたのか私に近いキリスト教会に行くことを勧めました。 その時まで耐えてきた私に転換期が訪れました。 「統一教の信者だったという話を牧師に話したら、統一教問題に詳しい牧師を紹介するということでした。 いわゆる反対牧師でした。 反対牧師に会うことが足が震えるほど恐ろしいことでした。 しかし、度重なる家出と激しい喧嘩で心身ともに疲れていました。 子どもたちも不安な生活が続いていたので、何でもつかみたい気持ちでした。 主体者も不安定な仕事と村ではそれさえもなくなる立場に置かれました。 そして仕事で引越しをしましたが、私には統一教を整理することができる環境になりました。 しかし(夫は)相変らず職場を転々としながら結局は主体者が幼い頃から夢だった牧師になりたいので勉強したいと言うので同意しました。 それから2年半ぶりに主体者が戻ってくるまで、時間をかけて協議することができました(どこへ行ったのか分かりませんが多分韓国?)。 祝福を受けて11年ぶりのことでした。 目に見えないマインドコントロールを理解するのは簡単なことではありませんでした。 やっと理解できたと思ったら、自分が被害者から加害者になったとわかると、つらくてたまりませんでした。
皆が自分を許してくれても自分は決して自分を許すことができないという考えで過ごしました。 「こんなになったら、何も知らずに教会に留まったほうがマシではなかったか、なぜこのような主体者にで会ったのだろう」と暗く長いトンネルを休まず歩き続けました。 また主体者との関係もDVということを知り、関連書籍を手当たり次第に読んでNPO団体で勉強する間にスポンジが水を吸い込むように自分の考えを本を通じて言葉で表現し、カウンセリングを受けることで心を整理して脱会者に

9)会って話をすることを通じて自分を省みることを繰り返しました。 最後はプラッシュバックとの戦いでした。 牧師の助けがあって無事に切り抜けることができました。 私はリハビリーが終わる頃、再び主体者から牧師の夢をあきらめて帰ったという連絡を受けました。 「この統一教問題を整理して帰る理由がない、今思えば以前のような『DV』を受けたら、私は間違いなく自分を守るために力では勝てないから、何か凶器で抵抗しただろうと想像してみます」。 朴ミユキさんと

10)同じ事件になるのではないかと思います。 このことは朴さんの問題だけではなく条件さえ合えば自分も同じことをやらかすと思えて心が痛くなります。 これが祝福が抱えている問題だと思います。 今も同じ状況下で苦しみと悩む姉妹たちが沢山いると思います。 朴さんのために何かやることがあるんじゃないかと考えざるを得ません。 その頃、私には何か問題が起こったらナイフを持って来ただろうと、DVDのカウンセラーに告白することができました。 気持ちを落ち着かせて主体者が家に帰って来る日になりました。 主体者が家に来た時、これからうまく行かず、子どもたちにもそんな父はいらないという周りの言葉に勇気付けられ、離婚を決心して家を出ました。 統一教問題をよく知る弁護士を訪ねました。 主体者は一度も裁判所に来ることがなく、一方的に離婚が決まりました。 献身してから26年ぶりのことです。 失われた日を回復できないという苦しみ、マインドコントロールという長いトンネルを出て自分の足で立ち上がれないほど疲れを感じていた私でしたが、今は少し回復して自分を大切にして過ごしています。 統一教問題を扱う牧師様、弁護士様、支援者の皆さん、脱会者の皆さん、そしてまだお会いできていませんが、ブログを通じて知り合った方々の助けがあって、今の私がいます。 多くの人が救出されることをお祈りいたします。

原文
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