ライター:崔榮黙(メディアトラジ管理者)

 松木国俊著”本当は素晴らしかった、韓国の歴史”を読んでいるところで、下記の文章は良くも韓国人の価値観を掴んでいるんだと感心したのである。韓国人の公より孝を優先するこの価値観は個人的にはそれほど気にして資料を読んで見たりしたことではないけど、暮らしの中で常に感じていた特に政治家への呆れた感情であった。政治家は一般国民と違って少なくとも国や国民の為に働くんだ!と言う意識が凄く薄くて何時も自分の為に、また家族や一族の為に権力を利用する!と言う印象を強く受けたのである。家族や親戚がらみの不正は至る所に行われて多くの国民から政治への不信感を招いたから。この価値観は以前は嫌悪感を抱いただけで韓国人が持つ価値観であることを知らず、後でこの価値観は朝鮮時代の500年も及ぶ儒教思想に基づいて形成された思考であると知った。
1970年代の幼い時に、教育は孝と忠を行うよう教わった。しかし、生活の中では親孝行が常に認識されていた。
では、その該当文章を引用すると、

”李氏朝鮮に於ける倫理観は儒教思想に基づいていますが、日本の場合と違って”忠”より”孝”がはるかに大切にされます。国家や民族への”忠節”よりも”親孝行”や”一族の祖先を敬う心”が圧倒的に優先されるのです。従ってそのような社会では”公”と言う概念が抜け落ち、家族や一族の利益こそが至上の価値として追及されることになります。しかし、国民に”公”の概念がなく、自分達の利益ばかり追いかけていては、近代社会に移行できるはずがありません。”

朝鮮は当時大陸の影響を強く受けていて儒子学を国を営む基本思想として受け入れ500年間統治理念とされた。幼い時に学校で歴史を学んだとき、歴史に登場する人物の中で、自分の親が亡くなるとお墓の隣に小屋を作り3年間お墓を見守りながら哭をした(3年葬)人が多かった。それが当時としては当たり前のことで李朝末期になると時代は大きく変わっていた。しかし、朝鮮はそんな世の中の変化を感じながらも権力闘争を繰り広げ自らの改革を行うことが出来なかった。また、旧態依然として清にしがみついて清の属国として残ろうとしたことで、これにより日清戦争が起こり日本の勝利によって朝鮮は清から独立をし国号を大韓帝国として当時王だった高宗は大韓帝国の初代皇帝として即位した。また、朝鮮時代に清からやってくる使臣を迎え入れる迎恩門を壊し独立門を建て替えた。これは清からの独立を記念するために建てられた建物で、今の世代では日本からの独立を記念して建てられた建物として知っている人があまりも多い。それくらい韓国では独立と言えば日本からの独立を意味するんだという認識が広まっているほど誤つた教育が行われていると言える。

朝鮮が日清戦争より清から独立したとは言え国として自立していける力はなかった。それで日本の協力を得ながら独立国家として力を付けて行ったならば国が亡びるまでは行かなかったかもしれない。しかし、朝鮮半島では朝鮮時代から反日感情があったと言うので、どうしても日本の協力を得るのは心理的に拒否感があったようだ。それで高宗は自分の権力を維持するためにロシアの領事館に身を移し(俄館播遷)政治を行い、これにより政治的には親日勢力が排除され新ロ勢力が政治を牛耳ることになる。この時に朝鮮の各種利権は外国に売り飛ばされ朝鮮の財政は疲弊していくばかりで、また、ロシアの南下政策により日本は脅威を感じることになった。それで日本はこれを阻止するため1904年に国の国運をかけてロシアと戦争に突入する。この戦争で勝った日本は朝鮮での影響力を拡大していくことになり無能な朝鮮の外交を信頼せず朝鮮の外交権をはく奪し代行することになる。朝鮮では1895年の乙未事変から断髪令により一揆が多発していて1905年の第二次日韓協約が締結されるとこれに抗議し全国的に一揆が広まって行くことになった。

全国的に沢山の義兵が起こり、その中で特に国や民族より(忠)当時の儒教思想に充実に従った李麟榮(イ・インヨン)と言う人物がいた。彼は、1895年乙未事変の時に義兵を起こしたが、それほど成果を上げることが出来ず田舎へ戻り農業に従事した。それから1905年に第二次日韓協約の時にはこれに抗議するため全国的に義兵運動が起こると、李麟榮(イ・インヨン)も参加するつもりであったが親の病気により断念せざるを得んかった。その後1907年に高宗が強制退位され、また、軍隊が日本により強制解散されるとこれの契機に全国的に義兵運動がまた起きる。義兵を起こした一部のリーダー達が李麟榮のもとに来てリーダーになってくれるよう頼まれた。彼は親が寝たきりになっていたので躊躇したが国の為と言う大義名分でこの提案を受け入れる。リーダーになった李麟榮は全国に檄文を発しさらに人員を補充した。ある程度勢力が整った時点でソウルを攻撃するために戦略を練った後ソウルへ向かっていたが、途中で親が亡くなったとの連絡を受ける。それで李麟榮は親の葬儀の為故郷へ帰ってしまった。葬儀後同僚たちから再びリーダーになって欲しいと頼んだが彼は親の3年葬を理由に断ったという。親の3年葬を終えた彼は田舎で家族と静かに隠れて暮らしていたが1909年に逮捕され処刑されたという。
国の運命が先か!親の葬儀が先か!迷うところであるが今の価値観で考えると国の運命を分ける最も大事な場面で親の葬儀を理由に職を辞退するのは疑問に思うかもしれないが、彼は当時の儒教が支配する社会の倫理観や価値観に充実に従っただけであった。

1907年 丁未義兵. イギリスの『マッキン』誌の『韓国の悲劇』に収録された写真。 1908年に撮影され、その位置は京畿道楊平郡良根とされています。 ©東亜日報社(写真で見る韓国100年)

時代が変わり人の思考や価値観また、倫理観も変わるのであるが長い年月を経て形成された民族性は子々孫々受け継がれるもので、その民族性は今日の価値観と混じりあい時には人の精神を支配するのである。朝鮮半島の家族や親族を中心とした生き方は幼い時からその環境により無意識のうちに身に付き思考を形成するのである。幼い時には本家に葬儀や結婚式などビックイベントがあるときは親せき皆集まって手伝いながら行事が終わるまで共に食事をとるのが当たり前だった。また、学校の授業では、朝鮮時代に親族の誰かが官職につくなど出世すると、その人の家には貧しい親族が来て食事をとるのが当たり前だったし、出世した人は親族を食わせるのが普通だったと教わった。朝鮮時代に儒教が支配する社会になってから人たちは(特に両班階級)先祖を供養するのがもっと大事な責務だった。子孫が途切れないように男児を好む思想が生まれたこと、またその子孫を残すために余裕がある人が余裕のない親戚の面倒を見るのが当たり前だと思ったかもしれない。昔はそういう思考が支配した時代だったとしても今は時代が変わり人たちの価値観が変わった部分はあるけど、依然として親せきや知り合いの力を頼ろうとする思考は残っていてそれが時には社会的に大きな問題を引き起こす。

韓国が1948年国家を樹立してから70年が経ち大統領経験者も多数を占めている。しかし、残念ながら歴代大統領を務めた人たちの殆どが悲運の結末を迎えた。亡命や暗殺があるが、最も多いのが在任中、家族や親せきによる不正蓄財行為である。大統領kら退任後権力を失うと検察の捜査によりその不正行為が明るみになって、本人が逮捕されるケースが多かった。今の文在寅大統領の場合も息子が親の権限を頼り金儲けをしてるとの噂が広まっており、また、大統領の知り合いや仲間により原子力の事業を撤廃し太陽光による電力生産に切り替え、太陽光パネルの販売で金儲けをしてるとの噂が広まっている。これもまた、文在寅大統領が退任後どんな結末が待っているか!非常に気になうところである。
近代国家の統治行為は、国家と国民を為に行わなければいけない。家族や親族による不正問題は”公”を重視する意識が薄い最高責任者の意識の問題だけじゃなく多くの国民の問題でもある。個人の些細な利益より国と全国民を優先する”公”の概念が求められる今の韓国で有る。