ライター―三浦小太郎(日本の評論家、人権活動家。維新政党・新風副代表)

「慰安婦と兵士」(山田正行著 集広舎)というとてもいい本が出たので紹介させていただきます。と言っても仕事中でちゃんと読めてないのですけど、パラパラっと見ただけでこれは読むべき本だというのはわかる。来月に仕事が一段落したら、ちゃんと読んでみようと思います。
本書は、伊藤桂一、田村泰次郎等の慰安婦を描いた戦争文学、また今は入手しにくい朝鮮人慰安婦の手記「女の兵器」等を多数紹介しつつ、慰安婦と戦場の兵士の間の精神的交流を、歴史問題賭してではなく戦地という極限状況の中での人間精神のドラマとして考察したもの。例えば本書で引用されている次のような言葉は本当にこの問題を語る上で忘れてはならないと思います。
「慰安婦という、いわば女として最低の賤業をしてきたにもかかわらず、彼女たちが意外に、人情家で、涙もろく、親切で、人が良く、かつ内部に天性の純真な資質を持っている」
「おそらく、荒廃にそのまま身を任せると滅んでしまうので、却って、内部に結晶していくものを、大切に抱き続けたのではないか」
「彼女たち(慰安婦)と兵隊たちとは、同一の下層の次元の中に生活していた。時に性具のように取り扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売り物に買い物、という関係だけではない。戦場でなければ到底持ちえない、感動のみなぎる劇的な交渉のしばしば持ちえたのである。」
以上は本書に引用されている伊藤桂一の文章ですが、彼は日中戦争、大東亜戦争双方に従軍、終戦後すぐに「慰安婦と兵隊」という文章を書きました。その動機も、慰安婦だった女性も、また彼女らに思いを寄せた兵士たちも、ともに沈黙して語ろうとはしないだろうが、自分は「戦場慰安婦というものの存在価値と功績は、もう少し一般の人々に正しく理解されてよい」ものだと考えるからだと語っています。また、ノモンハン戦争の際、ソ連軍の空襲と侵攻を逃れるため、戦場近くの在留邦人の夫人や児童のほとんどが安全な南に避難した時期がありました(そのことは勿論当然のことです)この時踏みとどまって兵士たちの看護などにあたったのは、実は慰安婦、酌婦、カフェーの女給たちでした。
「これらの女性たちは、一般女性たちからは、一段低い存在として、蔑みの眼で見られ、もちろんふだんの付き合いもなかったが、居留地が戦場の一角のようになってしまうと、俄然彼女たちは、文字通り粉骨砕身に働きだした。」
「後に、第7師団の須見部隊長が『ああいう女性たちが踏みとどまってくれ、あんなによくやってくれてほんとに助かった。中には朝鮮の婦人たちもだいぶまじっていましたが、彼女たちの心情を思うと、涙がとめどなく流れてやみませんでした』と述懐している。(中略)全ての指揮官もまた、同じ感想を抱いたはずである」
こういう話は今は「ごく一部の例で慰安婦や性売春を美化するな」と言われるのかもしれません。実際本書でも、傲慢で暴力的な日本兵が存在したことも、慰安婦の哀しみももちろん書かれています。しかし、それだけがまたすべてではないはずです。
彼女らを一方的に被害者、もしくは「性奴隷」などと規定したり、また逆に「商売」の論理だけで片付けてしまうのは、いずれも彼女らの尊厳を傷つけることではないかと思います。そのうちきちんと紹介したいとは思いますが、先ずは良書としてお勧めいたします。