保元の乱の史料をちょっと読んでみたら言葉通り”骨肉相爭”だったけど、勝った側は負けた側を処罰せねばならぬその心境は今時尚更凄まじさを感じてしまう。半島人としては史上こういう事例がないのであーと言うしかない。
後白川天皇側に付いた平清盛と頼朝のお父さんである源義朝が勝利し政権を握ることが出来たが、その後平清盛と源義朝の争いで平清盛が勝利し最終的に勝者になったが、この時、源頼朝はまだ幼い時期、それでも朝廷から官職を貰っていたから頼朝と後白川天皇との間では縁があったことが分るし、後白川天皇が平清盛から逼迫されていた時に頼朝の夢に現れ助けを求めたストーリは成程と思いたくなるが、それホンマかいと疑わしくもなる。
記事は先週の放送分についての解説だが、一つ注目したのが”足利義兼を上総介、加々美遠光を信濃守、安田義資を越後守に任官した。”と言う記述で足利義兼の名前が記されている。
これっ、もしかして、鎌倉幕府が終わった後室町幕府を開いた足利尊氏と関係ないかと思って家系図を調べて見たら、やはり足利義兼は足利尊氏の先祖に当たる人物だった。
平家追討の恩賞で、室町幕府の種が撒かれていたともいえるのか!
源義経の追討に舵を切った、頼朝の真意とは。(提供:アフロ)

【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の追討に舵を切った、頼朝の真意を考える