誤解だらけの「関ヶ原合戦」 徳川家康「天下獲り」の真実
1592年の文禄慶長の役の時、
開戦後破竹の勢いで北上した日本軍は2週間で漢城を占領した。その後明の参戦で結局は朝鮮南部に撤退せざるを得んかつた。豊臣秀吉の死によって撤収命令が下され撤収することになった。この時、当時朝鮮の水軍トップだった李舜臣3道水軍統制師は、日本軍の再侵略を恐れ撤退する日本軍を撃てねばと主張した。そして露梁(ノリャン)で最後の決戦が行われ、これがかの有名な露梁海戦だった。
この海戦で3道水軍統制師李舜臣を始め朝鮮の武将たちがたくさん亡くなったし、故に明の副提督鄧子龍も戦死した。この戦いを朝鮮軍の大勝利だったと教わったが、だいぶ時間がたってから資料を読んでみるうちに、朝鮮軍の大勝利よりも当時の日本軍の戦闘力が如何に高かったのかを知ることになった。
3道水軍統制師李舜臣以下朝鮮軍は、撤退する日本軍の士気が低下しているから戦闘意欲がなく、追撃すればきっと勝つと思ったに違いない、と個人的にはそう思うのである。しかし、蓋を開けてみると日本軍の武将は死者がなかった半面、朝鮮水軍はトップだった3道水軍統制師李舜臣だけじゃなく武将や明の副提督だった鄧子龍も亡くなってしまったのである。この結果を於いてみれば日本軍の戦闘能力が如何に高かったのかを知ることになる。こんな高い戦闘能力を持った日本軍が負けてしまった原因は何だったんだろうか。
7年間の戦争が終わった後1600年、世界で最も戦闘能力が高かった思われる日本軍同士が二つに分かれて権力争いが行われたのだから所謂日本版ワールドシリーズの幕開けで、後世はこれを関ヶ原の戦いと呼ぶのである。
この戦いの勢力均衡は五分五分でどちらもそう簡単に勝利を収めることができないと思っていたが、蓋を開けてみると東軍があっさり勝ってしまったのである。西軍には、朝鮮出兵時の第一軍先鋒の先鋒長を務めた小西行長公がいたにもかかわらず負けてしまったのは何故じゃ。
小西行長公は誰であろうか。
釜山に上陸した行長公の部隊は破竹の勢いで北上し、忠州で当時朝鮮の名将とも言われていた申砬率いる朝鮮軍を破り、快進撃で漢城へ向かい漢城を占拠した武将中の武装だった。その小西行長公が陣取っていた西軍があっけなく負けてしまったのは何ことじゃ。その原因を小早川秀秋の寝返りだけで説明できるのか、その真相は如何に!
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