創始期
道路用の信号機は、1919年(大正8年)に、東京市(当時)の上野広小路交差点に試験的に「信号標板」が設置されたのが日本初である。この時は「進メ」「止レ」と書かれた板を警察官が操作する手動式であった。この方式は多くの通行者が戸惑うこととなり、時期尚早として警察官による交通整理の方が良好と判断され本格採用は見送られた。3年後の1922年(大正11年)に上野公園で開催された平和博覧会の会場入り口交差点付近に再登場した。その後、「信号標板」は改良が重ねられ全国の都市に普及した。普及の背景は、大都市での交通事故の増加が顕著であり、更に手信号での適切な交通整理が難しいと判断されていたことであった。

発祥期
自動式信号機は、1930年(昭和5年)3月23日に東京市の日比谷交差点に設置された米国製[9]が最初である。灯器は交差点の中央部に設置され、緑・黄・赤3色の意味を知らせるために、あえて信号灯のガラスの上から「ススメ」「チウイ」「トマレ」と文字が書かれていた。これは米国のレイノルズ社製で、同年に国産の信号機も製造開始されている。

交通信号機が警察で仕様化されたのは1933年(昭和8年)。この当時の配列は道路中心から赤、橙黄、緑の順と定められ、表示面の直径も185 mmから230 mmと定められた[177]。

太平洋戦争に入ると信号機も灯火管制の対象となり、空襲警報発令時はスイッチを切り換えて減光した。その一方で、1942年(昭和17年)5月から1947年(昭和22年)12月まで、赤色の灯火の点滅(赤点滅)は空襲警報を告げる表示として用いられた。空襲警報を知らせる役割を担ったため、道路標識は金属類回収令による回収の対象となったが、信号機は回収を免れた[204]。しかし、空襲に伴い大半の信号機は被害を受けた。

なお、これ以前は「信号機」という名称が一般的ではなく、「交通整理器」「自動交通整理信号機」などの名称が用いられていた。

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%A4%E9%80%9A%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E6%A9%9F_%E6%AD%B4%E5%8F%B2

警視庁より

交通信号の創始期

大正半ばから昭和初期にかけて、交通整理は、警察官の「挙手の合図」や「信号標板」
等により行われていました。

(映像)Tokyo1919 貴重映像 昔の銀座通りとチンチン電車