ライター:Jin Kaneko

第二次世界大戦後の事実経過をきちんと把握することは、竹島(独島)問題を考えるうえで不可欠にもかかわらず、流れとして理解していない人が意外に多いようです。
そこで、韓国側の視点で、1951年9月11日調印、翌1952年4月28日に発効した「サンフランシスコ平和条約」に至る時間軸に沿って、事実の経過を物語風に説明していきたいと思います。なるべく、時間軸に沿った流れのほうが理解しやすいでしょう。ただ、それなりのボリュームになりそうなので、連載形式となります。
よかったら、読んでみて下さい。竹島(独島)の問題を論じるための、基礎的な史実を理解できるように、文章をつくるつもりです。

◆「独島」への関心の始まりは1947年

竹島(独島)の存在認識が、多くの韓国人の中に生じたのは戦後のことでした。少なくとも、日本が竹島の領土編入を行った1905年の大韓帝国期から、1945年9月7日までの日本統治時代、その後、米軍政下の1947年に至るまでは、当時の朝鮮人の関心の対象外。独島の存在を知っているのは、鬱陵島の住民ほかごく少数といった状況でした。当然、領有意識もありません。

1947年7月11日に米国極東委員会が、占領下の対日政策を発表しました。この情報が報道を通じて韓国に伝わり、これがきっかけで、韓国マスコミが「独島」問題を取り上げ始めました。韓国のメディア(新聞)が、いつから独島問題を取り上げ始めたか。これを調べることで、その、おおよその見当がつきます。
この時期、「『独島』は我が版図 歴史的証拠文献を発見」(東亜日報1947年8月5日)ほか、いくつかのの記事を見つけることができます。その論調と世論の中に「独島は韓国領土」という主張が芽生え始めまめした。

この東亜日報記事は、日本人の樋畑雪湖の論文「日本海における竹島の日鮮関係に就いて」(『歴史地理』55-6 日本歴史地理学会 1930 年 6 月 東京)に基づいて書かれたものです。
しかし、この論文は、当時、竹島と呼ばれていた鬱陵島と、現在の竹島(独島)の島名の混同という初歩的なミスがある欠陥論文であることが判明しています。ともかく、朝鮮(韓国建国前なので)の人たちが、竹島(独島)について、いろいろ調べまくり始めたことを示すものです。

また、この時期(前年の1946年)、「韓国最高の知性」と言われた崔南善が『朝鮮常識問答』というベストセラー著作を発表し、20世紀初頭の大韓帝国政府の認識と同様、「韓国(朝鮮)の領域の東限は鬱陵島である」としていた時期に出てきた主張であることは、たいへん興味深いものがあります。

こうした中、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(USAMGIK 韓国独立前、朝鮮半島南部・北緯38度以南を統治していた米軍の軍政機関)は同月、South Korea: Interim Government Activities, No.1 という文書を出し、「竹島(独島)の最終的処分(日韓いずれに帰属するか)は(対日)平和条約を待って決まることだ」という認識を示しました。

これで、韓国政府と韓国国民は、「なるほど、平和条約によって、独島を韓国領に確定しなければならない」と思いました。同年8月初め 南朝鮮過渡政府は、「独島に関する調査委員会」を設置し、この問題の調査・研究を開始しました。この時期、韓国の新聞にも、竹島(独島)の領有を主張する、初期の動きが現れます。

同年8月17日、朝鮮山岳会による鬱陵島・独島学術調査が開始されました。これをきっかけに、鬱陵島への関心も高まりました。
ただし、当時の韓国人たちの関心の中心は鬱陵島です。当時の新聞記事は圧倒的に鬱陵島の記事が多い。それに関連して、竹島(独島)が言及されたといったほうがより正確な言い方だろうと思います。