ライター:Jin Kaneko

◆現地(独島)での日韓の領土紛争が始まる--巡視船への銃撃も

1953年3月、日米合同委員会は、独島(日本名・竹島)について演習区域の解除を決定しました。
これにより、日本の漁民は、竹島での漁業の再開できる環境が整いました。韓国は1952年1月に、いわゆる「李承晩ライン」を設定。竹島はこのラインの韓国側にありましたが、その取り締まりは、済州島西方の海域が主で、竹島付近の取り締まりはほとんど行っていなかったようです。といっても、独島は米軍の爆撃訓練場であったため、日韓の漁民も、また、日韓の公船も近づかなかったわけですが。また、韓国側は、独島義勇守備隊を組織していましたが、守備隊は独島に常駐していたわけではなかったようです(時々やってくるという程度)。
ですから、海上保安部(現・海上保安庁)の巡視船や島根県の漁業調査船、ないし日本の漁業関係者が独島に現れ、頻繁に上陸をしています。海上保安部の巡視船は、演習区域の解除以降、韓国人も独島と周辺水域で漁業に従事していることが確認されたため、取り締まりに訪れるようになりました。
同年6月25日には、隠岐高校の実習船「鵬丸」(おおとりまる)が独島を調査を行っています。 このときは独島に上陸している6人の韓国人を確認したそうです。
←「隠岐の漁師脇田敏、河原春夫が語る昭和期の竹島」
http://www.pref.shimane.lg.jp/…/takeshim…/takeshima04-m.html

その2日後の6月27日、日本の海上保安部の巡視船「くずりゅう」と島根県の調査船「おき」が合同で竹島の調査を行い、上陸して「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てています。また、隠岐高校の実習船「鵬丸」が確認した6人の韓国人は、難破後独島に住み着いていた人たち(実は独島義勇守備隊員)で、不法上陸として、彼らを退去させています。この「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識は、これで4本目。建てるたびに引き抜かれていたわけですね。巡視船「へくら」は同年 8月3日に、 6月27日に設置した領土標識が撤去されていることを発見し、その後標識を再設置しています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_senkyo.html

6月27日に韓国人が独島から退去させられた事件について、東亜日報は同年6月29日付で 「韓國漁夫不法逮捕 日、獨島領有繼續主張」と報じました(コメント欄に、この紙面の画像を貼ります)。 この事件を聞いた李承晩大統領は、慶尚北道警察に指示して独島義勇守備隊に迫撃砲1門と弾100発を支給させたといわれます。この当時、義勇隊はこのほか、M1小銃とカービン銃で全員武装していたといいます。
そして、同年7月12日 、 巡視船「へくら」が独島に上陸していた獨島守備隊から銃撃を受けるという事件が発生しました。
翌 7 月 13 日、日本の外務省は東京の韓国代表部に口頭で抗議を行うとともに、竹島からの即時退去を要求。翌7月14日には、岡崎勝男外務大臣が閣議において、韓国との直接交渉により紛争の円満な解決の可能性を探る意向を表明し、さらに、その閣議後、米国ないし英国に対して仲介を依頼する可能性に言及しました。