ライター:Jin Kaneko

◆サンフランシスコ平和条約の発効とともにSCAPINが失効する

1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効しました。
同条約の 第1条には、次のようにあります。

(a) 日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。
(b) 連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。

--このように、この日から、日本国は完全な主権を回復し、占領状態も終結しました。GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)が日本政府に対して発した命令であるSCAPINも、この日をもって失効しました。

SCAPIN-1033(マッカーサーライン)も、同年4 月 25 日に、その廃止が指令され、その3日後の4月28日には必然的に効力を失いました。これは SCAPIN-677も同様でした。
日本漁船は、SCAPIN-1033(マッカーサーライン)を超えて、より遠洋の公海上に出漁できるようになったわけですが、第5話で述べたとおり、韓国政府は、この年の1月から李承晩ラインを宣布していました。

このため、これ以降、李承晩ラインを侵犯した日本漁船の銃撃や拿捕が再び繰り返されるようになります。韓国政府が日本漁船の徹底的な拿捕を指示したのは翌1953年1月12日のことですが、これ以降、日本漁船の被害が拡大します。

その翌月の2月4日に第一大邦丸事件が起こりました。
済州島沖20マイルの公海上で操業中の福岡の漁船・第一大邦丸と第二大邦丸(それぞれ57トン)が、韓国漁船・第一昌運号と第二昌運号(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕されたのです。その際、第一大邦丸の漁撈長であった瀬戸重次郎さん(34)が銃撃を受けて殺害されました。この韓国漁船2隻には乗組員各12名のほか、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が分乗していたことが後に判明しています。

この事件は、李承晩ラインの不法性に加えて、公海上での民間船への無警告攻撃行為と、拿捕後の取調べ時の虐待的取り扱いが大問題となりました。
日本政府は2月13日に韓国公使館へ口上書を送って抗議し、18日に損害補償と再発防止を要求しています。
←昭和28年(1953年)2月25日 第15回国会 外務委員会会議録 第20号

この李承晩ラインに、日本政府が強く抗議したことも第5話で述べたとおりです。
また、この李承晩ラインの対立を通じて、韓国政府は独島の領有主張を活発化させ、それにともなって、日韓対立が表面化していきました。