ライター:Jin Kaneko

◆卞榮泰外務部長官の「ラスク書簡」の反駁書--独島領有の主張

1951年4月から8月にかけて、韓国はサンフランシスコ平和条約の草案の修正をめぐって、独島の領有やマッカーサーラインの条約発効後の継続、韓国の連合国(戦勝国)としての処遇などを求めましたが、同年8月10日に、これらの要求を受け入れないとのアメリカ政府の最終回答が韓国政府に送付されたことは、第4話で述べました。いわゆる「ラスク書簡」です。

さて、「ラスク書簡」を受け取った韓国政府は、サンフランシスコ平和条約の調印の日(同年9月8日)の約2週間後、卞榮泰(ビョン・ヨンテ、변영태)外務部長官名で「ラスク書簡」の反駁書を、1951年9月21日付でムチオ(John Joseph Muccio 駐韓米国公使宛に送付しました。この反論は、主に「独島の韓国領有は認められない」とする「ラスク書簡」の記述に反駁したもので、その反駁の根拠として最初にあげたのが SCAPIN-677 でした。
その書簡の内容を以下に示します(一部読みやすいように、表現レベルで意訳しています)。
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親愛なるムチオ大使
この書簡には、「リアンクール・ロックス」あるいは日本では「竹島」として知られる「独島」の所有をめぐる論争を決定するに当たって、韓国にとっての決定的要因として留意されるべき1946 年 1 月 29 日付の SCAPIN-677 覚書の要約を同封しました。これにより、あなたの注意を喚起しようとするものです。
また、議論の対象となっている島(竹島・独島)がマッカーサーライン(SCAPIN-1033)の韓国側に置かれたという事実も、現在施行されているGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の方針の一つとしてあります。
私の記憶に誤りがなければ、1948年に航空爆撃演習によって、たまたまその島の近くに船で集まっていた韓国人漁夫たちに災害を引き起こした時、GHQ/SCAPはわが政府(韓国政府)に、この事件についての謝罪を行いました。 GHQ/SCAPがこの島を日本の領域と考えたならば、そこにいた韓国人たちは不法入国者となり、謝罪の必要は生じませんでした。
これは、同封の覚書(SCAPIN-677 )によって明らかなように、GHQ/SCAPは、独島が韓国に属する、若しくは属すべきであることをいささかも疑わなかったことを示しています。
我々は、この島が何百年もの間、韓国が所有していたことを証明する、相当数の文書化された証拠を持っています。
1905 年に、日本がこの島を近くの県の一つに編入したという事実(有り得べき国際的なトラブルを避けるため、政府レベルでなく県のレベルで密かに行われたこと)は、単に韓国の文書だけではなく、日本の文書によっても裏付けられているもので、独島に対する我々の然るべき所有権を否定することができません。
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⇒”TRANSMITTAL OF LETTER FROM MINISTER OF FOREIGN AFFAIRS ON KOREAN CLAIM TO DOKDO ISLAND”, Records Df the U. S Department of State relating to the Internal Affairs of Korea,1950-54 Department of State, Decimal File 795

この書簡の内容には、いくつもの事実の誤認がありますが、ますます文章量を増やすことになるので、その間違いについての指摘は行いません。
ここでは、当時の韓国政府が独島領有の最大の根拠として、SCAPIN-677をあげていることに留意していただければ幸いです。これも、たいへんな事実の誤認です。この誤認についてのみ、以下に説明を加えつつ言及することにします。

実は、今日の独島論争においても、これは指摘すべき重要なポイントで、韓国の独島研究者や現在の韓国政府自身も、卞榮泰外務部長官と同じ間違いを踏襲したまま、現在に至っているからです。
たとえば、学者では、韓国の国史学界の重鎮で、独島学会会長の慎鏞廈(シン・ヨンハ、독도의)らがSCAPIN-677および1033の有効性を主張してきました。慎鏞廈は次のように主張しています。
「連合国は、1943年11月20日カイロ宣言で韓国の独立を約束したし、日本敗戦後の日本領土の限界原則をはっきりと規定した。それが『SCAPIN-677』、『SCAPIN-1033』であり、獨島はこの連合国最高司令部によって韓国領土と判定され、日本の政治的行政的支配地域から分離して韓国に返還されたのだった」。
現在の韓国政府も、これに準じた主張を行っています。

このように韓国政府の独島に対する態度は頑なでした。
1951年11月26日、 李哲源公報處長が「独島に対する談話」を発表しています。これは、現在の韓国政府でいえば外交部の報道官の発表のようなものです。
同年10月22日の衆議院「平和条約及び日米安全保障条約特別委員会」において、草葉隆圓外務政務次官が「対日平和条約で竹島は日本領土であることが確認された」と述べました。この答弁が 11 月 24 日付朝日新聞の記事「日本に還る無人の『竹島』 空白十年の島の全容を探る」で報じられたことで、李哲源公報處長がその反論として発表したものでした。
←『光復 30 年 重要資料集』(月刊「中央 」1975 年 1 月号 別冊附録)』(中央日報、1975年1月) 140 頁

さらに翌1952年2月12日、韓国政府は口上書をもって独島領有権の主張を行いました(韓国駐日代表部覚書)。これは、後述する同年1月28日付の日本政府による李承晩ライン宣言への抗議に対する韓国政府の返答ですが、この中に「総司令部が1946年1月29日付 SCAPIN-677 によって同島が日本の領域から明確に除かれたこと、そしてまた同島がマッカーサーライン(SCAPIN-1033)の外側に置かれ続けたこと、これらの事実は韓国の主張を疑いの余地なく支持し確認するものである」と反論しました。