◆「SCAPIN-1033」継続主張から、「李承晩ライン」へ

1951年4月からの韓国の対日講和条約草案の修正要求では、SCAPINに関するもう一つの主張がありました。1952年4月28日の条約発効後も「SCAPIN-1033」(マッカーサーライン)を継続させろという、もう一つの要求です。

「SCAPIN-1033」(マッカーサーライン)の継続を望んだ韓国の主張の背景が漁業資源の占有であることは「第3話」で述べましたが、韓国政府は、この要求をサンフランシスコ平和条約に盛り込ませることに失敗しました。それについては第4話をご参照ください。

しかし、この要求をあきらめていないことは、第4話の後半で述べたとおりで、この「SCAPIN-1033」(マッカーサーライン)の代替措置を求めて、韓国政府は準備を進め、翌1952年1月18日の「海洋主権宣言」(李承晩ライン)に至ります。

ここからはしばらく、1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約の調印後から、この「海洋主権宣言」(李承晩ライン)に至る韓国政府の動きに注目してみたいと思います。

韓国政府は、一連の対米交渉と同年8月10日のラスク書簡により、平和条約発効とともに「SCAPIN-1033」(マッカーサーライン)が消滅することを前提として、日本政府との二国間交渉で、この問題に決着をつけるとともに、マッカーサーラインに代わる保護管理水域または保護管轄水域を設定しようと考えました。

同年 8月25日、 韓国政府は「対日漁業問題に関する会議 」を開催しました。参加者は、外務部・商工部・海軍・法務部の代表者です。韓国側公開文書によると、この会議において、「条約(サンフランシスコ平和条約)が発効する時点で、(マッカーサーラインが)消滅するのは事実だ。よって本会議では、それを前提とする韓国領海に隣接する公海の漁場を保護するために保護管理水域または保護管轄水域を宣布する、同時に日本と漁業協定締結を締結する段階に入る」とし、マッカーサーラインに代わる保護管理水域または保護管轄水域の「宣布を対日講和条約締結前に行い、韓日間の漁業協定は対日講和条約発効前に交渉の段階に入る」という方針を決定した。

つまり、まず、「保護管理水域または保護管轄水域」を既成事実を一方的に積み上げて、それを前提に日本と交渉を行うことを決めたわけです。まあ、かなり乱暴なアプローチです。
「対日講和条約締結前に行い」は実現しませんでしたが、同年9月7日には、第98回臨時国務会議で「漁業保護水域」を決定し、翌9月8日に李承晩大統領に「漁業保護水域宣布に関する件」を上申。大統領の裁可を仰ぐ準備を行いました。

しかし、韓国政府は漁業保護水域宣布を行う前に、対日交渉を行う方針に転換したようです。これは、たぶん李承晩大統領の意向と思われます。李承晩は、韓国が講和条約の当事国になれなかったことを含め、韓国の要求が退けられたことで、日本との直接対話を希望するようになったといわれています。韓国の要求は条約起草国のアメリカや主要連合国に受け入れられなかったことで、別途、日本に対して、韓国の要求を認めさせるという二国間アプローチに転換したことが、その背景にあると言われています。

同年10月20日、東京・千代田区の連合軍最高司令部(GHQ/SCAP)において、シーボルド(William Joseph Sebald)外交局長の立ち会いのもと、日韓会談予備会談が始まりました。
この日韓会談について、当時の日本政府はたいへん消極的で、サンフランシスコ平和条約発効後の1952年4月28日以降の会談開始を想定していたようです。つまり、この日韓会談予備会談は、韓国政府の強い要請で開催に至ったものでした。

なぜ、韓国政府は日韓会談の開催を急いだのかというと、前述の「漁業保護水域」宣布との兼ね合いでした。韓国政府は 日韓会談予備会談の結果を踏まえて、「漁業保護水域」宣布を決断しようとしていたと思われます。

実際、この予備会談において、「SCAPIN-1033」(マッカーサーライン)に代わった公海上において日本漁船を排除する水域の設定を提案したが、日本政府はこの提案を一蹴します。韓国政府の提案と日本の拒否は、韓国側公開文書によると、 同年11月22日の日韓予備会談第 8 回本会議 でした。
←「韓日会談予備会談(1951,10.20-12.4)本会議会議録、第1-10 次、1951,10.20-12.4」(韓国側公開文書)211 頁。

この日本政府の拒否を受けて、韓国政府は「漁業保護水域」宣布の準備を進め、1952年1月18日の「海洋主権宣言」(李承晩ライン)に至るわけです。