◆韓国政府の日本漁船拿捕・銃撃は、李承晩ラインの3年前から

さて、李承晩政権は、前述したとおり、SCAPIN-677およびSCAPIN-1033(マッカーサーライン)を日韓の主権の境界線と解釈するという過ちを行いました。この過ちが「李承晩ライン」にも引き継がれていわけです。また、独島の領有主張の根拠として用いるという間違いも犯しました。

ここで注意していただきたいのは、韓国政府の日本漁船に対する実力行使は1952年1月の李承晩ラインから始まったことではないという事実です。第5話の最後に、この問題を述べておきたいと思います。
韓国海軍による日本漁船の銃撃・拿捕事件は、李承晩ラインの3年前のマッカーサー・ライン侵犯の日本漁船に対する措置として始まりました。

たとえば、1949年1月23日、第12万栄丸(日本の漁船)が韓国海軍の艦船から突然銃撃うけ、船員1人が死亡する事件が起こっています。さらに同年2月1日、第6・第8ゆたか丸(日本の漁船)が同様に銃撃を受け、1人が死亡しました。さらに同年5月4日、大繁丸が韓国海軍艦船から、また銃撃うけ、1人が死亡しました。

大繁丸(⽔野松治船⻑)は32.78トンの底引き網漁船で、同年5⽉4⽇に、対⾺沖の漁場に向け⽥尻港(⿃取県岩美郡岩美町)を出港しました。しかし、途中で転進して⾒島(⼭⼝県萩市沖北北⻄約45km)沖の漁場に変更しました。
4⽇午前4時30分ごろに⾒島沖の漁場に到着、操業を開始しましたが、午前8時ごろに機関故障を起こし漂流することになりました。機関⻑の若本為治さんらは機関部の修理を開始。午後8時ごろ、やっとのことで故障の修理を終え、大繁丸は再び⾒島沖の漁場に戻ろうとした直後に、右⽅から接近する不明船(のちに韓国海軍船舶と判明)の無警告銃撃を受けました。
当然、大繁丸は驚いて、その海域からの避難・脱出を図りました。しかし、追跡されて、なお銃撃を受けました。これにより⽔野船⻑は背中に貫通銃創を受けて重傷、機関⻑の若本為治は頭部に2発の銃弾を受けて即死しました。

こののち、韓国海軍⽔兵が大繁丸に乗り込んで拿捕されました。大繁丸の乗組員は、ここで韓国海軍艦艇であることに気づいたわけです。拿捕された大繁丸は、翌5⽉5⽇午前9時ごろに韓国の⽵辺に⼊港し、重傷の船⻑を病院に搬送・収容しました。その後、大繁丸はさらに江原道墨湖に移動させられて韓国海軍の取り調べを受けました。この取り調べで、大繁丸はマッカーサーラインを越えていたことを知らされたのです。漁獲物と大繁丸は没収され、乗組員は1週間ほど留置された後、引き揚げ船黄金丸で佐世保に帰国しました。
これが大繁丸銃撃・拿捕事件のあらましです。

こうした韓国政府の措置・対応に、アメリカ政府や連合軍司令部(GHQ/SCAP)は激怒しました。
GHQ/SCAPは「韓国政府はマッカーサーラインを越境した日本の船舶を取り締りと称して襲撃・拿捕を繰り返しているが、韓国にマッカーサーラインを取り締まる権限がないので、やめさせなければならない」という見解を表明しました。GHQ/SCAP天然資源局水産部のヘリントン(William C. Herrington)は、韓国政府にこれを伝えるため、翌1950年2月9日から3月4日にかけて韓国を訪れ、韓国政府関係者と接触し、韓国にマッカーサーラインを取り締まる権限がないことを通告し、韓国政府に、取り締まりを中止することを受け入れさせました。
これにより、まったく根拠のない韓国海軍艦艇による日本漁船の取り締まりは、ここでいったん終息しました。

しかし、このGHQ/SCAPの申し入れで、韓国政府が「SCAPIN 677」「SCAPIN 1033」の独自解釈を撤回したわけではありませんでした。それは、後述する1951年春から夏にかけてのアメリカ政府国務省との協議、その秋のサンフランシスコ平和条約調印後の反論、さらに李承晩ライン宣言時の公式発言、その後の韓国政府の主張などで明らかです。韓国政府は、このSCAPINの独自解釈を金科玉条として、その後の竹島(独島)問題の主張や、李承晩ラインの正当性の根拠にも採用し続けたということです。
(つづく)
※下図は、李承晩ラインと「海洋主権宣⾔」(李承晩ライン宣布)を伝える 1952年1⽉20⽇付の「東亜⽇報」

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