ライター:Jin Kaneko

◆1951年6月初旬、韓国政府は独島領有の最初の対米要求を行う

第2話で触れたとおり、 崔南善の自宅を訪問した兪鎮午らが、対日講和会議準備委員会において、「日本から除外される地域は、済州島、巨文島、鬱陵島」というアメリカの対日講和条約の条文について、「独島と波浪島を講和条約の第 2 条に加える」という修正案を提起しました。

これが韓国政府の設けた対日講和会議準備委員会で了承され、兪鎮午らは意見書を作成しました。外務部の卞榮泰(ビョン・ヨンテ、변영태)長官は、このらの意見書の内容を詳細に検討したうえ、卞長官自身が英訳を行いました。この英文の意見書は韓国政府に了承され、1951年6月初旬、韓国政府覚書としてアメリカの国務省に送付されました。
これが韓国政府が公式に、独島の領有を要求した最初です。
←東亜日報(1974年5月23日)「秘話 第一共和国 277 第 11 話 李承晩と日本 5 『平和条約草案に波浪島追加要求 海上踏査の結果、実存せず、外交的失敗』」

以降、韓国政府は同年7月中に数回にわたり、対日講和条約草案の条文変更のための要求案をアメリカ国務省に送付するが、そのいずれにも対馬とともに、独島と波浪島の韓国の領有権を明記するよう求める内容が含まれるようになりました。

◆対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)の米英草案の調整が始まる

少し時系列をさかのぼりますが、1951年4月7日に、イギリスの対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)草案がアメリカに対して示されました。このイギリス案には、独島を韓国領とする記述がありました。これ以後、アメリカとイギリスの間で、条約草案の調整が行われ、 同年5月3日、「米英共同第 1 次講和条約草案」が 、6月14日には「米英共同第2次講和条約草案」がつくられて、草案づくりも最終局面に入ったわけです。同年6月4日から 14日にかけて、ロンドンにおいて対日講和に関する米英の最終調整のための会議が行わていますが、「米英共同第2次講和条約草案」は、この調整の結果です。

この「米英共同第2次講和条約草案」の領土放棄条項は、以下の通りでした。
「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島(Quelpart)、巨文島(Port Hamilton)及び鬱陵島(Dagelet.)を含む朝鮮に対するすべての権利権原及び請求権を放棄する」(Japan, recognizing the independence of Korea, renounces all right, title and claim to Korea, including the islands of Quelpart, Port Hamilton and Dagelet.)

独島を領有権放棄対象に含めた当初イギリス案の領土条項は、SCAPIN-677をベースにしたもののようです。とりわけ、これに大きな拘りはなかったようで、この領土条項については、アメリカ草案を受け入れる形になりました。そういう意味で、この年の春に韓国政府に示されたアメリカ草案とは、ほとんど内容の変更はありません。
なお、この米英共同草案は、公表されてないため、韓国政府は、この時点ではその中身を知りません。

また、外務省編著『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉』(2007年)、外務省編「日本外交文書 平和条約の締結に関する調書 第三冊 Ⅳ」(2007 年)によると、(日本)外務省の井口貞夫事務次官は、1951年6月28日、来日したアリソン(John Moore Allison)公使から「平和条約修正案文」を受領しているが、これが「米英共同第2次講和条約草案」です。日本政府は7月2日、「平和条約修正案に対するわが方意見」と題する意見書をアリソン公使に送付しています。