◆韓国の独島領有意識の芽生えは1947年

第1話、第2話で、韓国がどのような経緯で、独島領有の主張をし始めたか、少しでもご理解いだけたなら幸いです。
これについて、第1話、第2話を振り返り、簡単にまとめてみます。

米軍政期前半(1945年9月~1947年春)の韓国は、「独島」を韓国(朝鮮)の領域外ととらえていました。鄭洪憲他『朝鮮地理』(正音社 1946 年)、崔南善『朝鮮常識問答』(1947 年)および同『朝鮮常識』(1948 年)、盧道陽『中等國土地理附圖』(文友社、1947 年)は、いずれも韓国領土の東限は鬱陵島付近としており、学校でも生徒たちに、「独島は韓国の島ではない」と教えていたわけです。

韓国の「独島」の領土意識に、やや変化が現れたのが1947年夏でした。この頃、鬱陵島の漁業関係者が漁のため独島に上陸、そこで米軍の爆撃訓練に遭遇して14名の死者を出すという惨事が起こりました。これをきっかけに「独島」が報道されて、その存在が広く知られるようになりました。

そして、翌1948年の朝鮮山岳会による鬱陵島・独島調査をきっかけに、韓国の一部の知識人の中に、独島に対する領土主張が登場しました。韓国の新聞は、この知識人の主張を積極的に取り上げ、韓国国民の啓蒙を図りました。

◆韓国の初の講和条約草案修正要求では「独島」が欠落していた

韓国政府も対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)のアメリカ案の修正要求を検討する中、「対馬」とともに「独島」と「波浪島」の返還要求を盛りこむ検討を開始したのは第2話で述べたとおりです。そして、韓国政府は、林炳稷(イム・ビョンジク、임병직)国連大使からアメリカ国務長官特別顧問のダレス(John Foster Dulles)に宛てた1951年4月26日付の書簡において、最初の最初の領土要求を盛りこみました。
しかし、そこには、対馬の返還のみで、独島および波浪島(パランド、파랑도)の返還のための条約修正要求が欠落していました。

第3話では、まず、韓国政府の最初の領土要求に、なぜ独島および波浪島が欠落していたのかを検討してみたいと思います。
結論を極めて簡単にいいます。独島や波浪島の返還は国益上、優先順位が低かったからです。
ダレスに宛てた林炳稷の書簡(韓国政府の最初の条約草案の修正要求)は、次の6項目でした。第2話に述べた通り。

① 韓国が連合国として処遇されること
② 在日韓国人が連合国の国民として処遇されること
③ 韓国が日本の残した財産を接収することが認められること
④ マッカーサーライン(SCAPIN-1033)の維持
⑤ 対馬が韓国領であることの確認
⑥ 日本の脅威に対する安全保障の確立

この中で、韓国政府が最重要視したのは、①と④でした。