◆韓国政府は、なぜ独島の領土要求をしなかったのか?

最後に、⑤の「対馬・韓国領」について述べておきます。
第1話、第2話で触れたとおり、李承晩の2度にわたる発言・宣言により、対馬の返還要求は、韓国の国会も決議するなど大きな主張になりつつありました。一方、独島および波浪島については、それに比べれば、ごく一部にとどまっていたというのが、当時の状況でした。事実経過を少し詳しく記述しておきます。
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(1)1948年1月23日、南朝鮮過渡立法委院委員60名が「対馬島返還要請願書」に署名して提出し、翌2月17日にも国会で、対日講和会議で対馬島返還を建議するように立議した。
(2)1948年8月5日、憂国老人会(Patriotic Old Men’s Association)という民間団体がマッカーサー(Douglas MacArthur)に送った請願書の中で、対馬と共に独島と波浪島を返還するように求めた。
(3)李承晩は、政府樹立直後の同年8月17日の記者会見で「対馬は韓国領」とする声明を出した。
(4)それを受けて9月10日に大統領特使が東京で会見を行い、対馬は韓国に帰属すべきだと発言した。
(5)1949年1月7日、李承晩は年頭の記者会見で「対馬を返還すべきだ」と、対馬の領有権を強く主張した。
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そういうことで、韓国政府の対日講和条約草案の修正要求から、独島および波浪島が除外された理由と推定されます。

考えてみてください。対馬は人が生活できる環境と広さを持った島です。領土としての大きな価値があります。林炳稷の書簡(韓国政府の対日講和条約の修正要求)にある「⑥ 日本の脅威に対する安全保障の確立」にも、注目してください。当時の韓国においても、日本の大陸進出の野望の復活を恐れていました。その保障の一環として、防波堤としての対馬を欲したという面もあったかもしれません。

一方、独島は絶海に孤立した岩礁で、人の生活できる環境もありません。当時は海底資源もまだ未発見で、EEZの考え方もありませんから、EEZの基点にできるといったメリットもありません。また、独島周辺の海域は、前述したとおり、漁場としてもそれほど魅力的なものではありませんでした。
さらに、日韓の対立が先鋭化して、愛国心などの情念から独島を重視するという考え方も定着していません。現在の気分、問題意識で当時を眺めるわけにはいきません。
当時の韓国の国益を考えた場合、ほかの要求に優先して、独島に拘ることのほうが逆に批判を浴びかねない行動でした。

また、波浪島は論外です。第2話で述べた通り、済州島などの伝承に基づく島ですが、当時の韓国は、波浪島の存在を確認できず、その位置すら特定できていないわけです。あるかないかもわからない島を、韓国政府の要求の優先順位の上位に置く理由は、さらに見出せません。
とはいえ、対馬に、独島と波浪島を加えた対日講和条約草案の修正要求は、1951年7月に出てきます。それについては、次の第4話で。

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前回、この問題に関する韓国政府の対米交渉の経過と、1951年9月11日の対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)調印までを第3回の予定とすると述べました。
申し訳ありません。それは第4回ということにします。
(つづく)

※下図はマッカーサーライン(SCAPIN-1033)
SCAPIN-1033は、図のように、何度か改訂され、太平洋岸の日本漁船の出漁できる領域は、改訂のたびに大きく増えました。それに対して、日本海側はほとんど変化がありませんでした。