ライター:Jin Kaneko

◆サンフランシスコ平和条約の草案づくりが始まる

アメリカにとって対日講和条約締結のタイミングは、いろいろな思惑から議論のあるところでした。
講和条約締結とは、言い換えると、連合軍による日本占領の終結です。かつての日本のような交戦国にさせない保障ができたかどうかの見きわめもありますが、他方、日本への米軍の駐留は、アメリカの極東におけるプレゼンスの拠点のようなものになり始めていました。米ソ対立が激しくなり、中国では国共内戦も始まっており(1946年6月より全面的な内戦になっていた)、朝鮮半島の米ソの駆け引きも続いていたわけです。日本に駐留する米軍は、特別な意味を持ち始めていたわけです。このため、占領の終結=講和条約の締結をいつにするかでは、さまざまな意見があり、まとまりませんでした。
こうした中、占領軍司令官のマッカーサーが1947年3月17日、 「早期対日講和」を提唱する声明を発表します。
このマッカーサー声明をきっかけに、アメリカの国務省は、北東アジア部長(後、極東局長特別補佐官)のボートン(Hugh Borton)を中心としたグループに対日講和条約案の起草を命じました。その第1次草案(Draft Treaty of Peace with Japan)がまとまったのは、何と同年3月19日です。1、2日でまとめあげたというのではなく、米国務省内で事前の検討が進められていたということでしょう。

その内容は、極めて日本に対する懲罰的色彩が濃いものになっていました。
ちなみに、 この草案では、日本に残す島の名称を列挙し、付属地図で日本の領土的範囲を示す方式を採用していました。『日本国は、ここに朝鮮並びに済州島、巨文島、欝陵島、竹島(Liancourt Rocks)を含む朝鮮のすべての沖合小嶼島に対するすべての権利及び権原を放棄する』とされていました。
--このことを持ち出して、独島の領有首主張をする韓国の研究者やメディア・言論がありますが、これはダメ。国務省の一部局の内案です。これをもとに国務省案をつくるたたき台のようなもので、大統領どころか、国務長官の承認も得られていないものですから、これを根拠に持ち出すのは軽率ということになります。

◆韓国政府が独島ほかの領有権についての検討を開始=1951年春

これ以降、アメリカ国務省内で、省案という形で講和条約草案の検討が進められます。数次の草案がつくられました。もちろん、この草案は部外秘の内案ですから、日本も韓国も、さらに他の連合国もその内容を知りません。それどころか、国防省ほか、アメリカの他の省にも知らされませんでした。
その後、国務省は国防省や大統領府などとの調整を行い、さらに草案の修正を重ねるなど紆余曲折を経て、アメリカ案をまとめます。
これが、連合国と日本に示されました。韓国にも示されました。この条約草案には、領土確定や、戦争賠償などの戦後処理に関する取り決めなど韓国に関わる条項があったためです。

アメリカ政府は1951年3月27日に、日本政府に平和条約草案を提示しました。この時の草案には、竹島(独島)の名前は消えていました。これは、条文形式を変更したことや、日本政府の働きかけなどがあります。対日講和条約ですから、日本が受け入れなければ話になりません。アメリカ国務省は草案づくりに際して、日本政府の意向を確認するヒアリングを行い、日本も要望を伝えていました。条約策定の責任者のダレスが1951年2月から2度にわたり来日しています。
日本政府は同年4月4日付の覚書をもって、案文への若干の修正意見を付しつつ、その内容に異存のない旨を回答しました。

韓国に提示されたのは、その直後ということでしょう。遅くとも4月初旬には、アメリカ政府から条約案の内容が示されたのは確実です。

ここで最初のエピソード。