ちょっと意外な結末ですが、竹島(独島)と波浪島の領土要求が含まれていません。
しかし、この2島の領土要求は、その後しっかりと追加されます。ご安心を(笑
この6項目の修正要求のうち、①、③、⑤はすでに触れました。また、②と⑥はあえて説明するまでもないでしょう。
残りの④は、その後の李承晩ラインと関係してきます。李承晩ラインは、翌1952年1月の李承晩大統領の「主権宣言」によるものですが、④はそれに関連するので、たぶん第4話で、まとめて説明することになると思います。その時に、SCAPINについての法的位置づけについても触れます。これも独島問題の大事なポイントです。

●条約修正要求に消極的だった李承晩の説得に苦労(エピソード2)

ところがここで一波乱あります。

このエピソード2は、1974 年 5 月 23 日付の東亜日報に掲載された連載「秘話 第一共和国 277、第 11 話・李承晩と日本 5」からのものです。

エピソード1の洪璡基と兪鎮午の調査と意見も踏まえて、韓国政府は、前述の対日講和会議準備委員会において、対日平和条約草案の修正要求の取りまとめを行いました。

これがまとまったところで、国務総理(首相)の張勉(チャン・ミョン、장면)と法務長官の金俊淵(キム・ジュニョン、김준연)は、李承晩大統領に会って「帰属財産処理と領土問題は修正しなければならない」という説明を行い、李承晩の決裁を求めました。そのポイントは、洪璡基と兪鎮午のほぼ提案どおりでした。

ところが、李承晩大統領は、駐日連合軍司令官のマッカーサーが自分(李承晩)に、この問題について善処すると約束したことをあげて、「条約修正要求は必要ない」と強硬に反対したというのです。これで、張勉らは困り果てました。

そこで、ムチオ(John Joseph Muccio)駐韓アメリカ公使に会って平和条約草案の不当性を説明し、ムチオが李承晩に条約起草国のアメリカに対して修正要求を行うべきことを説得してくれるように頼んだというのです。このムチオという公使は韓国びいきで、いろいろな場面で韓国の肩を持って協力した人物ですが、その説明を聞いたムチオは、ダレス(John Foster Dulles 平和条約担当の米大統領特使)が「誤った考えを持っているようだ」と感想を述べ、李承晩説得の協力を約束してくれたということです。

こういう経緯を経て、韓国政府は、アメリカ政府に対して、対日講和条約の修正要求を送付することができました。

次の第3話では、この講和条約案の修正要求に関する、韓国政府の対米交渉がメインテーマとなります。ちょっと劇的な展開となります。また、竹島(独島)の領有権問題でしばしば話題になる「ラスク書簡」がいかなる経緯で韓国政府に送付されたのか、その内容が、日韓領有権問題にどのような意味を持つのかについても、説明したいと考えています。
(続く)

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