◆各国の非難が集中した「李承晩ライン」

1952年1月18日、李承晩大統領は、 「海洋主権宣言」(大韓民国近海の海洋主権に対する大統領宣言)を発表しました。いわゆる李承晩ラインです。当時は「主権ライン」とも通称していました。
これは、東シナ海・黄海の好漁場から日本漁船を排除することを目的としたものですが、それと同時に、広大な公海への国家主権をも主張しており、竹島とソコトラ・ロック(離於島)周辺海域を領海とする宣言でもありました。つまり、李承晩ラインの内側の水域に国家主権を行使するということで、「海洋主権宣言」と称したわけです。

この「海洋主権宣言」の中身 は、東京大学東洋⽂化研究所 ⽥中明彦研究室「⽇本政治・国際関係データベース」で日本語で参照できます。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/…/documents/texts/JPKR/1952011…

日韓漁業協議会の調査によると、李承晩ラインの宣言前後から日本側が受けた被害は、拿捕(だほ)された漁船が328隻、抑留者が3929人、死傷者も44人に達しました。
かなり、強硬な「李承晩ライン」侵犯の取り締まりが行われることになりました。これに対する賠償や謝罪は、現在においてもなされておらず、韓国政府は、今なお「李承晩ライン」を正当とする立場を変えていませんが、明らかに国家の行う不法行為でした。

当時において、各国が主権を行使し占有し得る水域(つまり領海)は、最大12海里でした。当時はこの領海においても、3海里を主張する国と、6海里や12海里を主張する国があり、論争の最中でしたが、李承晩ラインは論外でした。

こうしたことで、日本を含む各国政府は、李承晩ラインに対する非難を強めました。
このため、韓国政府は 1 月 27 日、「保護水域の宣言は公海への領海の拡張を意味しない。このことは宣言において、わが国が、公海における自由航行の諸権利を保証したことによって完全に裏付けされている」とする「李承晩宣言韓国政府筋声明」を出して、李承晩宣言の主権主張を後退させます。

しかし、各国の韓国非難は終わりませんでした。
日本政府(外務省)は、李承晩ラインが宣言された10日後の1月28日、韓国政府に対し、口上書をもって、その不当性を抗議するとともに、撤廃を要求しました。さらに、同年2月8日にも韓国政府に抗議を行い、海上保安庁は、銃撃をも伴う韓国側の激しい取締りからわが国漁船を保護するため、政府方針に基づき、巡視船を派遣することを決定しました。
続いて、アメリカ政府は 1952年2月11日付で駐韓米国大使の書簡と添付覚書を韓国政府に送付して、宣言の合法性を論駁しました。
同年6月11日、駐韓中華民国大使は、宣言に関する自国の権利と利益を保持するとした書簡を韓国政府に送付しました。
翌 1953年1月12日、中韓イギリス公使は、外務部次官宛の書簡で、宣言が作成された根拠が正当であると認めないとの立場を韓国政府に伝えました。

1952年2月15日に、 第 1 次日韓正式会談が始まりましたが、この日韓会談においても、SCAPIN-677および1033、李承晩ラインは主要な対立点の一つとなっていきます。