◆韓国国防部の独島領有の歪曲声明

1952年12月13日、極東軍総司令官(CINCFE)のウェイランド(Otto Paul Weyland)は、竹島の爆撃地指定を解除することを決定しました。これに伴い、駐日アメリカ大使館、駐韓アメリカ大使館と在韓アメリカ軍の第 8 軍補給部総監のへーレン(Thomas Wade Herren)は、竹島の爆撃地指定解除を韓国に通達すべきかの検討を開始しました。
そして、翌1953年1月20日、駐韓アメリカ大使館とへーレン総監は、韓国外務部に竹島の爆撃地指定解除を決定したことを通告しました。

同年2月27日、韓国国防部の申泰英(シン・テヨン、신태영)国防部長官は、CINCFE のウェイランド総司令官が、1 月 20 日に韓国政府に対し、竹島での演習停止を通告してきたと発表するとともに、この通告をもって「アメリカが竹島の韓国による竹島の領有を認めた」証拠と主張する声明を発表しました。
⇒1953年2⽉28⽇付「東亜⽇報」夕刊:「獨島漁⺠ 恐怖⼀掃 空爆演習中⽌ 를 美軍 서 保障」

日本においても、同日付の毎⽇新聞が「⽵島領有を確認 韓国国防部で声明」という記事を掲載し、次のように報じています。

〝【釜山27日発UP特約】韓国国防部は 27 日、米国は日本沿岸から 240 キロの海上にある独島(日本名竹島)の韓国領有権を確認したと声明した。なお同発表によれば同島は今まで日韓両国でその領有を主張して来たもので、同島付近の米軍機の爆撃演習でこの数年間に数名の漁民が殺傷されたことがあるが、ウェイランド米極東空軍司令官は今後同島周辺で米軍機は爆撃演習を行わないことになったと韓国政府 に通告した。 〟

この申泰英国防部長官の声明について、駐韓アメリカ大使館と駐日アメリカ大使館が本国の国務省に宛てて報告を行いました。
アメリカ国務省のダレス(John Foster Dulles)国務長官名で在日・在韓両米国大使館宛に回答が同年3月11日付で送付されました。
この中で、国務長官は、竹島(独島)の領有権は日本にあるとの見解に変更はないことと、韓国攻府は結局「ウェイランド書簡」を領有権の証拠として提示することは一度もなく、よって韓国国防部の歪曲であったと推測されると述べています。
⇒1953.03.11.USDOS 1953d, “Outgoing Telegram to US Embassies in Korea and Japan from Mr. Dulles (Secretary of State”) 1953/3/11 (USNARA/694.95B13/3-353 CS/H)

◆独島問題は、日韓会談の議題とならず

日韓会談は、1951年10月からの予備会談を経て1952年2月から本会談が断続的に開始されていました。
この日韓会談に、独島の問題が初めて提起されたのは、1953年4月15日から始まった第 2 次会談でした。独島については日本側からの提起でしたが、韓国代表は、韓国の領土である独島についての議論は内政干渉であると一蹴し、議題に含ませること自体を頑強に拒否しました。

朴實(パク・シル、 박실 )は『韓國外交秘史』(麒麟苑、1979 年 12 ⽉)中の「第 11 章 険しかった韓⽇会談 ◇独島と⽵島」(pp.287-295)において、この時の韓国側代表の発言を記しています。
〝泥棒が、道を歩いている紳士の金時計を見て、突然自分のものだと難癖をつけたとしよう。その紳士が『とんでもない話だ』と一蹴すると、相手方がその紳士に、裁判所に行って誰のものだか裁判をしようといいがかりをつけたとしても、裁判所に行く紳士はいないだろう、と一蹴してしまったのだ。そして、日本人たちに、韓日会談の議題は、請求権・平和線と漁業問題・在日僑胞の法的地位と待遇問題に限られる。我々の領土について国際司法裁判所に行くということは、考えることすら出来ないと応酬した。〟

この結果、日韓会談の場で、独島の領有権について話し合うきっかけを失いました。結局、1965年に至るまで独島の領有権問題は議論として避けられ、紛争解決の交換公文を取り交わすことで、問題が先送りされました。
後述するとおり、独島に関する日韓両国政府間のやりとりは、もっぱら口上書の交換となります。